いんたーねっと日記

141文字以上のものを書くところ

リュウゼツランの花が咲いた

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家の近くの川に以前からすごく巨大な多肉植物が生えていて、ふだんは全く気にも留めないのだけど、このあいだふと見ると大くて高い幹が立っていた。しかもその上の方にはどうも花のようなものが見えていて、なんだこれは、と思った。最初にみつけたのは7月のおわりで、このときはまだ蕾だったのだけど、今は見事に花を咲かせている。あまり美しい花というわけではないのだけど。

下は7月末の、まだ開花前の写真。

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数年前に住みだしたころからすごく立派な植物だとは思っていたのだけど種類もよくわからなくて、なんとなく葉の形がアロエに似ていたのでお化けアロエみたいに思っていた。あわてていろいろ調べてみると、これはもちろんアロエではなくて、リュウゼツランの仲間らしい。リュウゼツランといえばメキシコ原産で、テキーラの原料になる植物だということは知っていたのだけど、まさかこんな身近な場所に生えているとは思わなかった。

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リュウゼツランの花は咲くまでに数十年かかるので、それがどういうわけか100年というふうに誇張されて「センチュリープラント」などと言われたりしているらしい。日本にもそこそこの数植わっていて、ちょうどこの時期に開花しているらしい。

リュウゼツランは一度花をつけるとその株は枯れてしまうらしいので、たぶんこれからしばらくはこの場所でリュウゼツランの花をみることはできないのだと思う。藤沢に住むのは今年で最後のつもりなのだけど、最後の最後ですこしいいものが見られた気分。

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「おおかみこどもの雨と雪」での大学生の妊娠出産について思ったこと

※この記事は「おおかみこどもの雨と雪」のネタバレを大量に含みます。

このあいだの日曜日に「おおかみこどもの雨と雪」を見に行って、それからずっと大学生が妊娠するという映画のストーリーと、それを観ている自分が不安というか危なっかしさを感じてしまっていることについて考えていた。

映画の序盤は東京のはずれの国立大学に通う女子大生の花が、授業に潜り込んでいた「おおかみおとこ」の「彼」と出会い、「彼」がじつはオオカミの生き残りであることを告白され、「おおかみこども」の雪を産むというストーリーになっている。その1年後には弟の雨も生まれるのだけど、父親である「彼」はわずかな貯金を残して死んでしまう。花は2人の「おおかみこども」のためにバイトを辞めて大学を休学して子育てに専念するが、都会で「おおかみこども」を育てることに限界を感じて田舎への引越しを決意する。

僕はこの序盤について、「危なっかしいな」と思ってしまった。学生の妊娠というのは、僕にとってはそこそこ当事者性のある話だからだ(自分たちや知っている範囲ではそういうことは起きていないけれど)。周囲は小学生くらいの子どもをつれた親子連ればかりで、そういう当事者性のありそうな人が見当たらなかったのもそんな気分を増幅させた。

妊娠がわかったとき、花と「彼」は大喜びしていたけれども、花は学費と生活費を奨学金とバイトで工面している身だし、運送屋で働いている「彼」もそこまで多くの収入を得られていなかっただろう。子どもたちは人前であろうとオオカミの姿になってしまうことがあるので保育園に預けて仕事や学校に行くわけにもいかず、「彼」が死ななかったとしても花が学業を続けるのは難しいし、「彼」が子どもの面倒を見て花が学業を続けようとすれば経済的に行き詰まりかねないということは予測できただろう。それなのに避妊をせず結果として出産するというのは行き当たりばったりすぎる。

しかし映画全体からは、こういう心配こそが否定されるべきものというメッセージが漂っている。映画の中では(子どもがオオカミの姿で生まれる可能性があるので)自然分娩をしているし、田舎に引越しをしてからは「ロハスな生活」みたいなものを志向している。そんな流れの中では避妊や中絶こそが異質なもののように映るし、花は子どもたちがオオカミの姿を衆目に晒してしまうのをおそれてか保育園を使わず予防接種も受けさせず児童相談所の職員を頑なに家に入れようとしなかった。ふつう、学生をはじめ若年層の妊娠・出産の話題は、望まれない妊娠を防ぐために避妊の教育を徹底しろだとか、保育園の空き待ちを改善したり学校に託児所を設置しろというような主張とセットになっているようなものなのに、この作品にはそれらが存在しない。

この映画で描かれているのは「青年期の男女が恋に落ちれば子どもが生まれるし、親は子どもを想って育てて、周囲の人達が暖かくサポートして、子どもは立派に成長する」という世界で、そこに経済的なものを持ち込むことがたぶん間違っている。たしかに自然観察ガイドの仕事が軌道に乗るくらいまでの花の経済事情はかなり厳しいはずだけど、結果的にみんな幸せだからそれでいいんだ、というのがこの映画のなかの世界の話なのだ。

今日、ニートのphaによる本「ニートのススメ」が届いたので電車の中で読んでいたのだけど、ちょうど「おおかみこどもの雨と雪」について考えていたようなことが書いてあって、ちょっと文脈は違うのだけど引用したい。

もっと言うと、僕は「お金がないと生きていけない」とか「お金を稼ぐには働かなければならない」という事実にまだあまり納得がいってないというのがある。憎悪していると言ってもいい。それは社会では当たり前のことなのかもしれないけど、それが当たり前だって簡単に思いたくない。もっと適当に、お金なんてなくても全ての人間は安楽に幸せに生きられるべきなんじゃないのか。それが文明ってもんじゃないのだろうか。それは夢のような話なのかもしれないけど、なんかそれは諦めたくない。

「ニートのススメ」p86

まあでも、そんなこと言ってもお金は欲しいんだけど。お金がないのが不幸につながりやすいのは残念ながらおおむね真実だし。

「ニートのススメ」p87

おおかみこどもの雨と雪」に描かれている幸福は、労働という行為は存在するものの、基本的にお金に依らない幸福なのだろう。きっとこの映画を観て「大学生を(が)妊娠させ(す)るなんて」と感じてしまうのは、経済に依存した幸福観に支配されすぎてしまっているのだ。僕は(経済的にはかなっり恵まれているほうのはずだけど)学生で、学生の懐事情というものを体感的に知っているからそういう見方をしてしまうのだけど、子育てから得られる強い幸福を知っている、休日に大型ショッピングセンター内の映画館に小学生くらいの子どもを連れてくる母親父親たちはそんなことを微塵も感じないんじゃないかとか思った。

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

嘘を嘘と見抜くこと

ネタ画像の話と関連して。

中国語圏のサイトを見て回って感じたのだけど、中国語が読めないと、中国語のサイトはどのサイトなら情報のソースとして信用できて、どのサイトの情報は信用できないというようなことが全くわからない。日本で日本語のサイトにある程度馴染んでいれば、2chにしか書いてない情報はあんまり信用しちゃいけないと思だろうし、虚構新聞のページとか民明書房からの出典は全部嘘というのは前提知識として持っているので情報の取捨選択ができるのだけど、中国語圏のWebサイトではまずどれが大手の信用できるマスコミなのかもわからない。

ふと思ったのだけど、もし○○新報みたいな名前の中国語で書かれた虚構新聞のようなサイトがあって、多くの中国語圏のインターネットユーザーはそのサイトにある記事は全部嘘だと知っているのだけど、そのサイトにある記事を日本語に翻訳して「○○新報によると〜」みたいな感じで紹介したら、多くの人が本当に中国のマスコミが報じた内容だと信じてしまうんじゃないだろうか。翻訳して紹介する人が中国語は読めるけれども中国語圏のインターネット事情にはそこまで詳しくないみたいな人だったら、起こりえる事だと思う。

そういうわけで、「嘘を嘘と見抜ける」ことは確かに大事なのだけど、「嘘が嘘だとわかるようにする」配慮だって必要なのだと思った。たとえば民明書房からの引用というのはネットスラングとして民明書房が多用されていることを知っていたり「魁!!男塾」を愛読したりしていればたしかに嘘だと思えるはずなのだけど、そうでない多くの人にとっては「そんな本があるんだ」程度に思われてしまう可能性がある。

たぶん多くの日本語で発信をしている人は、「読む人も自分と同じで、日本で生まれて日本で教育を受けた人なんだろう」という前提のうえでやっていると思うのだけど、そういうのは海外の人には通じないし、日本の人にだって通じる保証はない。そういうときに西村博之氏の「嘘を嘘と見抜けない人には(掲示板を使うのは)難しい」を引用してくる人は、無意識のうちに自分と同じような育ち方をしてきた人以外を否定してしまっていて、暴力的だと思う。

いちおう念の為に書いておくと「嘘を嘘と」を発言した西村氏を非難するつもりはありません。本来の文脈をはなれて、「情強」の人たちの錦の御旗のように使われていることは問題だと思います。

インターネット上の嘘だとわかりにくいような嘘を信じてしまったりマジレスしてしまったりするのは仕方がないことだし、それに対して「情弱」とか「嘘を嘘と(ry」とかバカにするのはそろそろやめた方がいいと思う。そんなことよりも正しい情報を伝えることのほうが大事なはずだし、嘘の情報が嘘であるということを表明する必要がある。

……と、ここまで情報を発信する立場について書いたけれども、一方で受け取る側には「嘘を嘘と見抜く能力」より「インターネット上の情報なんてどこまで信用できるかわからないんだから真に受けない能力」というのが求められているというのを忘れちゃいけないはずですよね。

「台風でベランダ死亡」の画像は先週の台湾の大雨のものだったことと、SNSに蔓延る画像の転載について

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台風4号が接近するなか、TwitPicにアップロードされていた1枚の画像が話題になっていた。

台風でベランダ死亡

もう何人もの人が指摘しているのだけど、これは今回の台風での写真ではない。僕は最近、この手の画像を見たらGoogleイメージ検索をすることにしているので、例によってイメージ検索をすると中国語のページがたくさんヒットする。「期間を指定」を使って少しずつ検索対象のページの日時をずらしながら検索していくと、6月12日ごろに中国語圏でこの画像が爆発的に広まったことがわかる。

こういうことをしたいときにGoogleイメージ検索で画像のURLを指定して検索するのが便利で、特に「期間を指定」と併用するとその画像がいつ頃出回り始めたのかを推測することができる。もっとも、ブログのトップページなどはそのページが最初にクロールされた日付が表示されてしまうので、ページ側に表示されている日付がいつなのかをチェックするのを忘れずに。

TwitPicにつけられていたコメントでは「台湾人のブログ」という台湾人による日本語のブログに、6月12日の記事で貼られていることが指摘されている。ところが、このブログでも「うちじゃない」と言っていて撮影者本人ではないらしい。

ベランダ式の水槽w

魚でも飼うか?www

あ、うちじゃないよ、台北だけどぉwww

大雨~~~(台湾人のブログ)

ではどこの誰がこの画像を撮影した(作った)のだろう、ということが気になってくるのだけど、残念ながら僕は中国語が読めないのでどこがオリジナルなのかわからなかった。検索してすぐ見つかる中で、台風が来てこの画像が日本語圏で話題になるより前に書かれた、唯一日本語の情報が、この「台湾人のブログ」だった。

結局画像の初出がわからないまま、Twitterにそれまで調べたことを書いていたら、以前からこの画像を見たことがあったという方からリプライをいただけた。

というわけで、@asha05さん(に翻訳・要約していただいた記事)によると、facebookで転載されまくっていたらしい。言語の壁の上にSNSの壁があるとなると、もはや調べようがない。

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実はその前日にも似たような状況になっていて、Rocketnews24に掲載されていた「『男の娘』の全裸写真(局部は見えませんがヌード写真なので職場などでの閲覧はご注意ください)」もやはり中国語圏のウェブサイトに非常にたくさん掲載されていて、2010年ごろには出回っていたということまでしかわからなかった。日本のAV女優の希志あいの氏がこの画像は自分だと名乗り出ているらしいのだけど、出典が何なのかは書かれていない。

この画像広がり方の面白いところは、画像の隅に署名を入れるかのごとくURLやサイト名やロゴが入れられているものが多くて、しかも別のサイトのロゴの上にそういうものが平然と入れられているものが非常に多いことだった。

見つかる中で最も古いものは、2010年8月5日という日付がついている、掲示板に貼られているものだった。ただしこの画像はサイズが非常に小さいし、やはりロゴっぽいものが入れられている。もっとずっと以前からこの画像は流通していたのかもしれない。

結局、この画像についても画像の出典や、(本当に希志あいの氏の画像であるなら)なぜ「男の娘」の画像として扱われ始めたのかという経緯もわからないままになってしまった。

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イチローの作文画像について調べて以来、TwitterFacebookで広がるいろいろなネタ画像が、本当にTwitterFacebookが初出なのか調べる癖がついてしまって、それっぽいものが流れてくるたびにGoogleイメージ検索のお世話になっているのだけど、今回のようにネットのどこかで流行った画像がさも最新の情報であるかのようにアップロードされ、RTされ、シェアされていることは多い。

以前よく「2chで○年前に流行ったネタがTwitterで流行っている、やっぱりTwitter民は情弱」みたいな言説を見かけたのだけど、そういうことを平気で言ってしまうような自称「情強」の人たちが、今回の中国語圏で出回っていた2枚の画像を見て、「これは現在の日本の写真じゃない」「これは中国語圏で結構前から出回っている」と見ぬくことができたとはとても思えない。僕もイチローの一件がなかったら日本の一般家庭のベランダが水没していると思い込んでいたかもしれない。

こういう流行のネタなんて、その時それが流行っているコミュニティに属してれば見飽きてしまうけれども、そうでなければおもしろく思えてしまうものだと思う。今の中学一年生に先行者とか教えたら2週間くらいはその子の学校のクラスで流行るんじゃないだろうか。

今回のベランダ水没画像は、「これはちょっと前の台湾の大雨の時の写真だ」といって紹介しても十分おもしろかったと思うのだけど(特に台風が近づいている時なら)、どういうわけかそういう説明抜きにアップロードされてしまったので誤解が生じてしまって、すごく残念なことだと思う。

まだ今回のは台湾の大雨のときのものであるという情報が(おそらく意図的に)削られていただけだったのだけど、なかには拾った画像を自分で撮ったというように嘘をつく人もいて、いくらなんでもルール違反だと思っている。

1週間以上前から出回っている画像を「本日」撮影したかのように騙ってAKB48の商法を非難してる人を見つけたのでそれはダメなんじゃないかと指摘したこともあるのだけど、結局返事はもらえなかった。

ネタ画像を転載する人たちのほとんどは、偽の情報を広めようとか自分の主張に利用しようとか、そういうことを考えているわけじゃなくて、単に見た人を楽しませようと思っているだけだと思うし、それが話題を提供していろんな人にとってのインターネットをちょっとずつ楽しくさせている側面もあるのだけど、やっぱりちょっと情報がテキトーに運用されすぎなんじゃないかという気がしている。自分にとってはただの拾い物の画像でも、自然にどっかから湧いてくるわけではないし、もう少しどういう経緯でネット上に転がっているのかということに注意を払ってもいい。

そういうことを考えながら、今日もまたネタ画像の元ネタ探しを続けています。

ブログの見た目をすっきりさせた

はてなブログを書くようになって、ちょっとずつ見た目をいじっていたのだけど、思い切ってサイドバーを無くしてしまった。さすがにどこの誰が書いてるのかわかるようにプロフィールの部分だけ右上に残してみた。

ブログのレイアウトというのはなぜかサイドバーがついていることが多くて、僕も以前はそういうのがナウいと思っていたのだけど、いろんなブログを見ていてやっぱり要らないなと思うようになった。まずサイドバーをあんまり見ないし、細いところに記事タイトルを並べると変なところで改行されてしまってごちゃごちゃしてしまう。月別のアーカイブを載せるのはたとえば10年書き続けたとしたらとんでもない長さになるし、そもそも特定の年月から記事を探すという需要が自分の中では考えられなかった。

はてなダイアリーでもサイドバーは消していて、そのかわり「記事一覧」というページをサイドバーに載せる情報の代わりみたいなつもりでリンクを貼ったりしていた。「記事一覧」は はてなID/archive にアクセスすると見られるのだけど、最近の記事や年月別の記事一覧、カテゴリー別の記事一覧へとそれぞれリンクが貼られていて、けっこう便利だった。はてなブログにも似たようなページがあるけど、このページに載ってない古い記事へは辿れないのではてなダイアリーのと同じような感じになってくれるといいなと思っている。

このブログでは141文字以上の文章を書くことを目的としているので、とにかく長い記事を載せても読みやすくなるようにしたかった。サイドバーをなくしたのも本文に集中しやすくするためというつもりがあったし、それだけでなく標準のテーマよりも大きい文字サイズにしたり、はてなキーワードへのリンクは目立たないようにした。本当であればリンクの文字列に関しては、下線で他のテキストとの違いを作っておくべきだと思っているのだけど、はてなキーワードまでそれをやってしまうのはちょっと読みづらいと思う。リンクだらけになるのが嫌ではてなダイアリーを使ってないという話も、昔どこかで読んだような気がする。

そういうわけで、はてなブログのいろんなテーマよりは読みやすくしたつもりはあるので、読みづらいぞ!という方はご報告いただけるとありがたく存じます。

追記(2012/06/19)

「記事一覧」で過去の記事がたどれない問題は修正されたみたいです。ありがとうございます!

ネットの地続き感

ネットの向こう側とこちら側はよくも悪くも地続きだなあと思うし、ネット上で行動するにはそういう感覚を持っていることが大事じゃないかなあと思う。

テレビは多くの人にとって、画面の中の世界に芸能人という人種の人達がいて、歌ったり演じたりおしゃべりをしている、というもので、あまり現実感のないもののはず。芸能人の人たちは自分たちとは違う種類の人間で、そういう自分とは一生交わらないだろう人達が違う世界でやりとりしているのを自分は液晶画面を通して見ているという感覚だと思う。テレビのこちら側にいる僕たちはつねに安全で、自分が見られる側に回ることはぜったいにない。

周囲の大多数の人たちのインターネットとの関わり方をみていると、どこかテレビっぽいなと思うところがあって、Wikipedia2chまとめサイトを見てる人はたくさんいるのだけどWikipedia2chに書き込んでいる人はほとんどいないし、検索でヒットしたQ&Aサイトの解答は参考にするけど自分で質問したり解答したりはしないし、ただ話題になっていたりたまたま見つけたりしたページを読んで一喜一憂して、SNSで紹介するぐらいしかしない。ブログやSNSの自分のページは自分のことをリアルで知っている人しか対象にしていなくて、Twitterは@をつけたmentionでの会話しかしていない。まるで、知らない人たちの使っているインターネットはテレビの画面の向こう側で、ブログやSNSはテレビのこちら側というような感覚で使っている。

そういう使い方が悪いと言うつもりはないのだけど、そうやってネットの向こう側とこちら側が地続きだという感覚が欠けたままネットを使うのは、もっとインターネットを活用したいと思っているのならもったいないことだし、場合によっては危ないことも起こりえるのでちょっと心配に思ってしまう。

よく、ネット上で匿名の議論がうんぬん、みたいな話題になると「面と向かって言えることだけを言え」とか「自分は匿名のくせに顕名の人にひどいことを言うなんて」というような主張をする人が出てくるのだけど、これってまさにネットの地続き感覚の話だと思う。テレビに出ている芸能人は、実は全国の液晶画面のこちら側から絶えずブサイクだのバカだの言われているのだけど、その声は液晶画面の向こう側に届くことはない。ところがネットではこちら側と向こう側が地続きなので、友達とか自分と同じような意見を持ってそうな人たちだけに対して言ってるつもりでも、向こう側に簡単にリーチしてしまう。

しかも、向こう側にいる人というのは必ずしも芸能人だけじゃなくて、ふつうの人がその表舞台に立つということも、わりと簡単に起きてしまう。意図して立つこともできるわけだけれども、ふとしたきっかけでそういう舞台に立たされてしまうことも多い。とつぜん自分のTwitterでの発言が、拡散されることなんてぜんぜん望んでいなかったのにRTされて広まってしまうなんてことは日常的に起きている。

たぶん、いわゆる炎上事件なんかで心ないコメントをしたりする人たちは、悪意を持っている人ももちろんいるのだけど、大半の人はそこまで悪意を持ってないんじゃないかという気がしている。テレビのワイドショーをみながらお茶の間で「けしからんなあ」とか「こんな奴死刑にすればいいのに」なんて話をしたり、街頭インタビューにそういうふうに答えたりする程度の感覚なんだと思う。そういう人達にとってきっと、炎上のやり玉に上がっている人は、芸能人とか容疑者とかと同じような、とにかく自分とは全く接点のない世界の自分とは違う種類の人間なのだ。

ネットの向こう側とこちら側が地続きなのは、悪いことよりもいいことのほうが多くて、僕はネットのおかげですごい人にも面白い人にもたくさん知り合えたし、こうして考えていることをいろんな人に読んでもらえるチャンスも得ている。地続き感覚というか、フラットさの感覚というか、そういうのがあるだけでネットはどんどん楽しくなるんじゃないかなと思う。

「意識の高い学生」ということば

「意識の高い学生」ということばが「リア充」なみに意味のあやふやな言葉になっている気がするのでいろいろと調べたことをまとめたり思う所を書いておきます。

僕の周囲では「意識の高い学生」という言葉は、2010年の秋ごろから爆発的に使われるようになったと思います。たぶんそのきっかけは「意識の高い学生bot」でした。

努力すれば意識は高くなる。そう実感したのは、小学校二年の頃。はじめて竹馬に乗れた時、ものの見方が完全に変わった。

https://twitter.com/omaehikui/status/9394154849173504

このbotについては『なぜ「意識の高い学生」は人の心を動かしたか』という記事にまとめられていて、「意識の高い学生」という概念についても自身の体験を踏まえながらしっかりと考察されています。

このbotがウケた人は、アカウントを見る限り学生が多いようです。
特に大学3、4年生、つまり就活を体験し意識している世代。
皮肉対象である『意識の高い学生』が集中している世代でもあります。

彼らは、僕を含めてですが、就活で多くの学生に出会いました。
いろいろな人がいました。
その中には、「超就活してますオーラ」をむんむんに出している人も少なからずいるわけで。
そんな人達を、僕らは尊敬する一方、あまりの「学生らしくなさ」に「何やねんアイツw」と冷めた目で見ていたのではないでしょうか。

思春期の子供が大人ぶりたいのと同様に社会人ぶった(しかも勝手なイメージ)学生を滑稽に感じていた。

その土台があったからこそ、
このbotが「そんな奴いるいるww」と、
ある種のあるあるネタとして通用しウケたのではないかと思うのです。

なぜ「意識の高い学生」は人の心を動かしたか

個人的には、こういった「意識の高い学生」ということばの流行の影には、授業に出席してレポートを書いて単位数を揃えて卒業する「普通の学生」から見て、こういったどこか滑稽にも感じる「学生らしくなさ」を持った学生のほうが、結果的にシューカツでも成功するし異性にもモテてしまうところへの反感が強くあったように思います。特に就活においては地味に勉強をしていたというアピールよりも学生団体の運営や海外でのボランティア活動、企業での(無給のことも多い)インターンのような、学業以外の部分のアピールのほうが有効に働いてしまう(少なくとも、シューカツ指南本のようなものにはそういったアピールをするよう書かれているというイメージが強い)ということもあって、そういったキラキラした存在へのルサンチマンを元に、「意識の高い学生」という具体像が形成されていったのだと思います。

これ以前にも、「意識の高い学生」という表現自体は数多く使われています。2010年6月29日に書かれた『意識の高い学生、ロスジェネ、素直になれなくて』には「最近は流行りの」として登場していて、そういった存在への反感が綴られています。

ふう。それにしても、最近流行りの「意識の高い学生」ってなんなんだよって感じですよまったく…。その意識って言葉が、無意識的に就活に向かっちゃってるのがいやな感じだよね。ファッション意識が高くても、環境意識が高くても、本来なら意識の高い学生なはずじゃん。

意識の高い学生、ロスジェネ、素直になれなくて

しかしこの当時「最近流行りの」とされていたのは「意識の高い学生(笑)」のような、皮肉めいた表現というより、純粋な意味での用法考えられます。当時の世間(シューカツ界?)での「意識の高い学生」の意味合いは、もっとポジティブなものでした。

そもそも、「意識の高い学生」ということば自体は、僕が大学1年生だった2007年頃には使われていた記憶があります。ちょっと探しただけでも2007年頃の学生団体のイベント記事や就活サービスのプレスリリースではポジティブな意味で使われていたことが確認できます。

2006年12月23日古賀ブロの会

古賀ブログというというブログを通じて出会った意識の高い学生を集めたイベント

自己分析グループワーク
池袋Tシャツメッセージ
みのわ愛 ウォーキング講座
10万円プレゼン

学生60人

学生団体GRIP イベント

以降、1万人以上の学生がセミナーを受講し「就職活動の本質がわかった」「このセミナーに出たからこそ就活を楽しめた」「意識の高い学生と知り合えた」と高い評価を得ています。

就職サイト『[en]学生の就職情報』過去1万人以上が参加!人気就活支援セミナーを2009年卒学生向けにスタート

意識の高い学生botのアカウントがTwitterに登録されたのが2010年11月1日、そのbotについての考察記事が発表されたのが2010年11月23日、このあたりから揶揄するニュアンスを持った「意識の高い学生」ということばは広く使われていくようになっていきます。キャリアや就活関係の著書を多数出版している常見陽平氏の2011年2月7日のブログ記事にはそのことについて触れています。

「意識の高い学生」


なんて曖昧な言葉なんだろう?
実は意味って1つじゃないよな。

というか、見事に乱れた日本語なのかも。「○○に対して」という対象がすっかり抜け落ちているなと思ったり。

その対象は多くの場合
1.就活(あるいは、広い意味での自分の将来)
2.社会問題など
3.自分磨き
かな。

あるいは、対象はどうでもよくて、物事についてよく考えている学生、行動が前のめりになっている学生もさすのかな。



いつしか、Twitter上では、ややスラング化している様子もあり、「就活に一生懸命すぎる気持ち悪い学生」「リア充すぎる学生」という意味もあるかなぁ。うん、最近は学生を揶揄する文脈で使うことが多いかな。いわゆる就活エリート層とイコールになってきている?

「意識の高い学生」という曖昧な言葉

ほかにも2011年3月に開催された斎藤大地(@daichittaX)氏による「意識の高い学生」をテーマとした討論イベント「MASTERPLAN」の企画書では、「意識の高い学生」と「意識の高い学生(笑)」を区別して、後者を意識の高さや意識の高い行為を自慢する者として使っています。

 「意識が高い」とは、交流会・講演会・説明会やインタビューなどに積極的にアクセスし、「すごい人」に会ったりすることをきっかけとして社会参加(特にビジネスや環境・国際・貧困など)を志向していくこと、と定義してよいと思う。もちろんその主催者はさらに意識が高いとみなされる。

 今回お呼びした3人も違った手法で、それを行っている3人である。

 しかし、「意識が高い」とは、様々な形で皮肉として使われることも多い。特に「”自”意識が高い」と呼ばれるような、自分が上記のような態度をとっていることで他の学生よりも自分は価値があると思い、Twitterやブログなどでその自意識を発露させている学生はよく意識が高い(笑)と呼ばれる。

「MASTERPLAN」企画書

ところで、「意識の高い学生」ということばを、対象者を揶揄するようなニュアンスで最初に使い出したのはどこの誰なのだろいうということを調べていくと、2010年9月には「意識の高い学生の盲点」という記事が書かれていました。

「意識の高い学生」
このフレーズはたまに耳にすることがある。
「君は意識が高いねー」とか「ここに集まってる人はみんな意識が高い人」だとか。
もはや使い古されていて、「意識が高い」っていう表現を嫌う学生もいたりする。

意識の高い学生の盲点

 ここに書かれている「意識の高い学生」はMASTERPLANの企画書で(笑)をつけていた存在に近いように感じられますが、やはり意識の高い学生botのような、ステレオタイプ的な意識の高い学生像というものはそこまで具体的にイメージされていないように感じられます。

さらに古い記事を探していくと、「シューカツが気持ち悪いのは要するに進化ゲーム理論」という2008年12月16日に書かれた記事を見つけました。探した限りでは「意識の高い学生」ということばを揶揄する目的で使っている例として最も古く、そして(笑)が付いているのも見逃せません。

進化ゲームに関して言えば「シューカツ≒受験」であると認識している。二ヶ月ほど前、「意識の高い(笑)」学生のための就活勉強会というものに参加し、その雰囲気から都会の予備校を思い出した。田舎の公立高校*3に通っていた僕は、高三の冬、大手予備校の直前対策冬期講習を受けに初上京した。そのときにそっくりで、気持ち悪かった。あの教室は、「受験に合格する」という前提を空気として保有していた。

シューカツが気持ち悪いのは要するに進化ゲーム理論

「意識の高い学生」に関する考察や議論が行われる一方で、「意識の高い学生」のステレオタイプをまとめたものも目につくようになっていきます。2011年7月ごろの意識の高い(笑)学生にありがちなことという2chスレッドには「意識の高い学生」の「あるあるネタ」が大量に投稿されています。2011年8月18日にはNEWSポストセブンが「就活スラング「意識の高い学生www」たちの残念行動13パターン」という記事(どうやらこれも常見陽平氏が書いたものらしい)で、やはり「意識の高い学生」の例を挙げています。はてなダイアリーキーワードの「意識の高い学生(笑)」にもやはりこういったあるあるネタが書かれています。2012年2月にはfromdusktildawn氏が「最近、「意識の高い学生」という言葉をよく見かけるが、意味がよく分からないので、ネットで意識高い学生の特徴を拾い集めてみた」として多くの特徴を列挙しています。

ここからは個人的な感想になってしまうのですが、この数々のあるあるネタを読んでいくと、だんだんと当初存在していたキラキラした意識の高い学生へのルサンチマン的なニュアンスが徐々に薄れてきて、ただそういう行為や言動の類型を笑うニュアンスだけが残っているように感じます。学生の間だけのスラングとして使われていたことばが、もっといろいろな世代や立場の人に触れたこと、2010年に大学3,4年生だった学生の多くが卒業して社会人になったことが大きな原因でしょう。

常見陽平氏の記事では特にその傾向が顕著で、 最初はことばの使われ方に疑問をもっていたのが、その対象となっている学生を諭すような内容となり、そしてあるあるネタになってしまうという、対象としている読者層が全く違うとはいえことばの使われかたの変化を如実に表しているように思えます。ちなみに最近は「大学にとって公害、いや人害」としつつも「周りに意識の高い学生wや意識の高い社会人wがいても、圧倒されず、焦らず、面白がりましょう」と主張しています。

先日、イケダハヤト氏が「意識が高い学生」でいいじゃないかという記事を書いていたのですが、参照しているのがfromdusktildawn氏の意識の高い学生の特徴を列挙した記事であったりして、そもそも意識の高い学生という言葉が使われだした頃のニュアンスがちゃんと認識されていないのかなと思いました。そもそも本来であればポジティブな意味で使われていた言葉なのでそこからネガティブなニュアンスを想像するのは難しいと思いますし、あるあるネタからもやはりそれらを想像することは難しいでしょう。

ここでふと思い出したのが、「中二病」の発案者である伊集院光をラッパーのZEEBRAがdisった事件で、ことばの意味がいろいろな人に使われるうちにだんだん変わってきて、変に解釈されて批判されてしまうというのがすごく似ているなと思ったのでした。