いんたーねっと日記

141文字以上のものを書くところ

ネットの地続き感

ネットの向こう側とこちら側はよくも悪くも地続きだなあと思うし、ネット上で行動するにはそういう感覚を持っていることが大事じゃないかなあと思う。

テレビは多くの人にとって、画面の中の世界に芸能人という人種の人達がいて、歌ったり演じたりおしゃべりをしている、というもので、あまり現実感のないもののはず。芸能人の人たちは自分たちとは違う種類の人間で、そういう自分とは一生交わらないだろう人達が違う世界でやりとりしているのを自分は液晶画面を通して見ているという感覚だと思う。テレビのこちら側にいる僕たちはつねに安全で、自分が見られる側に回ることはぜったいにない。

周囲の大多数の人たちのインターネットとの関わり方をみていると、どこかテレビっぽいなと思うところがあって、Wikipedia2chまとめサイトを見てる人はたくさんいるのだけどWikipedia2chに書き込んでいる人はほとんどいないし、検索でヒットしたQ&Aサイトの解答は参考にするけど自分で質問したり解答したりはしないし、ただ話題になっていたりたまたま見つけたりしたページを読んで一喜一憂して、SNSで紹介するぐらいしかしない。ブログやSNSの自分のページは自分のことをリアルで知っている人しか対象にしていなくて、Twitterは@をつけたmentionでの会話しかしていない。まるで、知らない人たちの使っているインターネットはテレビの画面の向こう側で、ブログやSNSはテレビのこちら側というような感覚で使っている。

そういう使い方が悪いと言うつもりはないのだけど、そうやってネットの向こう側とこちら側が地続きだという感覚が欠けたままネットを使うのは、もっとインターネットを活用したいと思っているのならもったいないことだし、場合によっては危ないことも起こりえるのでちょっと心配に思ってしまう。

よく、ネット上で匿名の議論がうんぬん、みたいな話題になると「面と向かって言えることだけを言え」とか「自分は匿名のくせに顕名の人にひどいことを言うなんて」というような主張をする人が出てくるのだけど、これってまさにネットの地続き感覚の話だと思う。テレビに出ている芸能人は、実は全国の液晶画面のこちら側から絶えずブサイクだのバカだの言われているのだけど、その声は液晶画面の向こう側に届くことはない。ところがネットではこちら側と向こう側が地続きなので、友達とか自分と同じような意見を持ってそうな人たちだけに対して言ってるつもりでも、向こう側に簡単にリーチしてしまう。

しかも、向こう側にいる人というのは必ずしも芸能人だけじゃなくて、ふつうの人がその表舞台に立つということも、わりと簡単に起きてしまう。意図して立つこともできるわけだけれども、ふとしたきっかけでそういう舞台に立たされてしまうことも多い。とつぜん自分のTwitterでの発言が、拡散されることなんてぜんぜん望んでいなかったのにRTされて広まってしまうなんてことは日常的に起きている。

たぶん、いわゆる炎上事件なんかで心ないコメントをしたりする人たちは、悪意を持っている人ももちろんいるのだけど、大半の人はそこまで悪意を持ってないんじゃないかという気がしている。テレビのワイドショーをみながらお茶の間で「けしからんなあ」とか「こんな奴死刑にすればいいのに」なんて話をしたり、街頭インタビューにそういうふうに答えたりする程度の感覚なんだと思う。そういう人達にとってきっと、炎上のやり玉に上がっている人は、芸能人とか容疑者とかと同じような、とにかく自分とは全く接点のない世界の自分とは違う種類の人間なのだ。

ネットの向こう側とこちら側が地続きなのは、悪いことよりもいいことのほうが多くて、僕はネットのおかげですごい人にも面白い人にもたくさん知り合えたし、こうして考えていることをいろんな人に読んでもらえるチャンスも得ている。地続き感覚というか、フラットさの感覚というか、そういうのがあるだけでネットはどんどん楽しくなるんじゃないかなと思う。

「意識の高い学生」ということば

「意識の高い学生」ということばが「リア充」なみに意味のあやふやな言葉になっている気がするのでいろいろと調べたことをまとめたり思う所を書いておきます。

僕の周囲では「意識の高い学生」という言葉は、2010年の秋ごろから爆発的に使われるようになったと思います。たぶんそのきっかけは「意識の高い学生bot」でした。

努力すれば意識は高くなる。そう実感したのは、小学校二年の頃。はじめて竹馬に乗れた時、ものの見方が完全に変わった。

https://twitter.com/omaehikui/status/9394154849173504

このbotについては『なぜ「意識の高い学生」は人の心を動かしたか』という記事にまとめられていて、「意識の高い学生」という概念についても自身の体験を踏まえながらしっかりと考察されています。

このbotがウケた人は、アカウントを見る限り学生が多いようです。
特に大学3、4年生、つまり就活を体験し意識している世代。
皮肉対象である『意識の高い学生』が集中している世代でもあります。

彼らは、僕を含めてですが、就活で多くの学生に出会いました。
いろいろな人がいました。
その中には、「超就活してますオーラ」をむんむんに出している人も少なからずいるわけで。
そんな人達を、僕らは尊敬する一方、あまりの「学生らしくなさ」に「何やねんアイツw」と冷めた目で見ていたのではないでしょうか。

思春期の子供が大人ぶりたいのと同様に社会人ぶった(しかも勝手なイメージ)学生を滑稽に感じていた。

その土台があったからこそ、
このbotが「そんな奴いるいるww」と、
ある種のあるあるネタとして通用しウケたのではないかと思うのです。

なぜ「意識の高い学生」は人の心を動かしたか

個人的には、こういった「意識の高い学生」ということばの流行の影には、授業に出席してレポートを書いて単位数を揃えて卒業する「普通の学生」から見て、こういったどこか滑稽にも感じる「学生らしくなさ」を持った学生のほうが、結果的にシューカツでも成功するし異性にもモテてしまうところへの反感が強くあったように思います。特に就活においては地味に勉強をしていたというアピールよりも学生団体の運営や海外でのボランティア活動、企業での(無給のことも多い)インターンのような、学業以外の部分のアピールのほうが有効に働いてしまう(少なくとも、シューカツ指南本のようなものにはそういったアピールをするよう書かれているというイメージが強い)ということもあって、そういったキラキラした存在へのルサンチマンを元に、「意識の高い学生」という具体像が形成されていったのだと思います。

これ以前にも、「意識の高い学生」という表現自体は数多く使われています。2010年6月29日に書かれた『意識の高い学生、ロスジェネ、素直になれなくて』には「最近は流行りの」として登場していて、そういった存在への反感が綴られています。

ふう。それにしても、最近流行りの「意識の高い学生」ってなんなんだよって感じですよまったく…。その意識って言葉が、無意識的に就活に向かっちゃってるのがいやな感じだよね。ファッション意識が高くても、環境意識が高くても、本来なら意識の高い学生なはずじゃん。

意識の高い学生、ロスジェネ、素直になれなくて

しかしこの当時「最近流行りの」とされていたのは「意識の高い学生(笑)」のような、皮肉めいた表現というより、純粋な意味での用法考えられます。当時の世間(シューカツ界?)での「意識の高い学生」の意味合いは、もっとポジティブなものでした。

そもそも、「意識の高い学生」ということば自体は、僕が大学1年生だった2007年頃には使われていた記憶があります。ちょっと探しただけでも2007年頃の学生団体のイベント記事や就活サービスのプレスリリースではポジティブな意味で使われていたことが確認できます。

2006年12月23日古賀ブロの会

古賀ブログというというブログを通じて出会った意識の高い学生を集めたイベント

自己分析グループワーク
池袋Tシャツメッセージ
みのわ愛 ウォーキング講座
10万円プレゼン

学生60人

学生団体GRIP イベント

以降、1万人以上の学生がセミナーを受講し「就職活動の本質がわかった」「このセミナーに出たからこそ就活を楽しめた」「意識の高い学生と知り合えた」と高い評価を得ています。

就職サイト『[en]学生の就職情報』過去1万人以上が参加!人気就活支援セミナーを2009年卒学生向けにスタート

意識の高い学生botのアカウントがTwitterに登録されたのが2010年11月1日、そのbotについての考察記事が発表されたのが2010年11月23日、このあたりから揶揄するニュアンスを持った「意識の高い学生」ということばは広く使われていくようになっていきます。キャリアや就活関係の著書を多数出版している常見陽平氏の2011年2月7日のブログ記事にはそのことについて触れています。

「意識の高い学生」


なんて曖昧な言葉なんだろう?
実は意味って1つじゃないよな。

というか、見事に乱れた日本語なのかも。「○○に対して」という対象がすっかり抜け落ちているなと思ったり。

その対象は多くの場合
1.就活(あるいは、広い意味での自分の将来)
2.社会問題など
3.自分磨き
かな。

あるいは、対象はどうでもよくて、物事についてよく考えている学生、行動が前のめりになっている学生もさすのかな。



いつしか、Twitter上では、ややスラング化している様子もあり、「就活に一生懸命すぎる気持ち悪い学生」「リア充すぎる学生」という意味もあるかなぁ。うん、最近は学生を揶揄する文脈で使うことが多いかな。いわゆる就活エリート層とイコールになってきている?

「意識の高い学生」という曖昧な言葉

ほかにも2011年3月に開催された斎藤大地(@daichittaX)氏による「意識の高い学生」をテーマとした討論イベント「MASTERPLAN」の企画書では、「意識の高い学生」と「意識の高い学生(笑)」を区別して、後者を意識の高さや意識の高い行為を自慢する者として使っています。

 「意識が高い」とは、交流会・講演会・説明会やインタビューなどに積極的にアクセスし、「すごい人」に会ったりすることをきっかけとして社会参加(特にビジネスや環境・国際・貧困など)を志向していくこと、と定義してよいと思う。もちろんその主催者はさらに意識が高いとみなされる。

 今回お呼びした3人も違った手法で、それを行っている3人である。

 しかし、「意識が高い」とは、様々な形で皮肉として使われることも多い。特に「”自”意識が高い」と呼ばれるような、自分が上記のような態度をとっていることで他の学生よりも自分は価値があると思い、Twitterやブログなどでその自意識を発露させている学生はよく意識が高い(笑)と呼ばれる。

「MASTERPLAN」企画書

ところで、「意識の高い学生」ということばを、対象者を揶揄するようなニュアンスで最初に使い出したのはどこの誰なのだろいうということを調べていくと、2010年9月には「意識の高い学生の盲点」という記事が書かれていました。

「意識の高い学生」
このフレーズはたまに耳にすることがある。
「君は意識が高いねー」とか「ここに集まってる人はみんな意識が高い人」だとか。
もはや使い古されていて、「意識が高い」っていう表現を嫌う学生もいたりする。

意識の高い学生の盲点

 ここに書かれている「意識の高い学生」はMASTERPLANの企画書で(笑)をつけていた存在に近いように感じられますが、やはり意識の高い学生botのような、ステレオタイプ的な意識の高い学生像というものはそこまで具体的にイメージされていないように感じられます。

さらに古い記事を探していくと、「シューカツが気持ち悪いのは要するに進化ゲーム理論」という2008年12月16日に書かれた記事を見つけました。探した限りでは「意識の高い学生」ということばを揶揄する目的で使っている例として最も古く、そして(笑)が付いているのも見逃せません。

進化ゲームに関して言えば「シューカツ≒受験」であると認識している。二ヶ月ほど前、「意識の高い(笑)」学生のための就活勉強会というものに参加し、その雰囲気から都会の予備校を思い出した。田舎の公立高校*3に通っていた僕は、高三の冬、大手予備校の直前対策冬期講習を受けに初上京した。そのときにそっくりで、気持ち悪かった。あの教室は、「受験に合格する」という前提を空気として保有していた。

シューカツが気持ち悪いのは要するに進化ゲーム理論

「意識の高い学生」に関する考察や議論が行われる一方で、「意識の高い学生」のステレオタイプをまとめたものも目につくようになっていきます。2011年7月ごろの意識の高い(笑)学生にありがちなことという2chスレッドには「意識の高い学生」の「あるあるネタ」が大量に投稿されています。2011年8月18日にはNEWSポストセブンが「就活スラング「意識の高い学生www」たちの残念行動13パターン」という記事(どうやらこれも常見陽平氏が書いたものらしい)で、やはり「意識の高い学生」の例を挙げています。はてなダイアリーキーワードの「意識の高い学生(笑)」にもやはりこういったあるあるネタが書かれています。2012年2月にはfromdusktildawn氏が「最近、「意識の高い学生」という言葉をよく見かけるが、意味がよく分からないので、ネットで意識高い学生の特徴を拾い集めてみた」として多くの特徴を列挙しています。

ここからは個人的な感想になってしまうのですが、この数々のあるあるネタを読んでいくと、だんだんと当初存在していたキラキラした意識の高い学生へのルサンチマン的なニュアンスが徐々に薄れてきて、ただそういう行為や言動の類型を笑うニュアンスだけが残っているように感じます。学生の間だけのスラングとして使われていたことばが、もっといろいろな世代や立場の人に触れたこと、2010年に大学3,4年生だった学生の多くが卒業して社会人になったことが大きな原因でしょう。

常見陽平氏の記事では特にその傾向が顕著で、 最初はことばの使われ方に疑問をもっていたのが、その対象となっている学生を諭すような内容となり、そしてあるあるネタになってしまうという、対象としている読者層が全く違うとはいえことばの使われかたの変化を如実に表しているように思えます。ちなみに最近は「大学にとって公害、いや人害」としつつも「周りに意識の高い学生wや意識の高い社会人wがいても、圧倒されず、焦らず、面白がりましょう」と主張しています。

先日、イケダハヤト氏が「意識が高い学生」でいいじゃないかという記事を書いていたのですが、参照しているのがfromdusktildawn氏の意識の高い学生の特徴を列挙した記事であったりして、そもそも意識の高い学生という言葉が使われだした頃のニュアンスがちゃんと認識されていないのかなと思いました。そもそも本来であればポジティブな意味で使われていた言葉なのでそこからネガティブなニュアンスを想像するのは難しいと思いますし、あるあるネタからもやはりそれらを想像することは難しいでしょう。

ここでふと思い出したのが、「中二病」の発案者である伊集院光をラッパーのZEEBRAがdisった事件で、ことばの意味がいろいろな人に使われるうちにだんだん変わってきて、変に解釈されて批判されてしまうというのがすごく似ているなと思ったのでした。

はてなダイアリーの記事を移行しました

Twitterをやりすぎていたことを反省して、しっかりと141字以上の文章を書こうと思いたったのではてなブログになるべくいろんなことを書くようにしています。このままはてなダイアリーを残しておいてもストックが分散してしまうだけなので、はてなブログに統一しました。

はてなダイアリーでは記事のカテゴリーの分け方がめちゃくちゃになってしまっていて、そもそもブログにカテゴリー別のインデックスが必要なのか疑問に思えてきたのではてなブログではそれをしてこなかったのですが、今回移行にあわせて過去の記事のカテゴリーも外しました。いったんはてなダイアリーから過去記事のXMLを書きだして、XMLファイルからカテゴリー分けをしている部分を除去し、その上ではてなダイアリーの記事をいったん全削除してからインポートし、さらにはてなブログにインポートするという複雑な手段でしたが、ちゃんとはてなスターはてなブックマークも移行できているようです。

現在、元のはてなダイアリーのURL(http://d.hatena.ne.jp/ymrl/)にアクセスすると、はてなブログにリダイレクトされるようになっているようです。管理画面に行ってもリダイレクトされてしまって一切はてなダイアリーに触れない状態なので、おそらくしばらくは新たにはてなダイアリーが更新されることもないと思います。

ところで、はてなブログから別のブログサービスへのエクスポートや、はてなダイアリーMovableType形式のファイルのインポートができるようになる予定はあるのでしょうか?今回のように少し手を加えてからインポートしたい場合には、そういう機能があると非常にやりやすいように思います。何らかの形でエクスポートできる機能は、万が一はてなブログをやめざるを得ない事情が発生したときに必要になってきます(たとえばはてなが突然倒産しそうになったときとか!)。安心してブログを利用するためにも、どうか株式会社はてなの皆様にご一考いただければとおもいます。

歌舞伎町マルチネフューチャーパーク

歌舞伎町マルチネフューチャーパーク(カブチネ)行ってきた。

DSC_8217

DSC_8199

DSC_8272

DSC_8388

DSC_8462

DSC_8521

DSC_8509

「音手」は前から実物を見たくて、実際に見たらけっこううるさいし後ろに巨大なコンプレッサー2台が置いてあったりして壮観だった。今回はフロアの後ろの方にあったけどぜひ次があればステージの真ん中にあってほしい(けど客が暴れると壊れそう……)。

DSC_8525

神輿FIREにお金を払って眠りつづけて死ぬのロゴを貼ってもらったはずなのだけど、確認できなかったし数十秒で神輿が崩壊した。

DSC_8656

DSC_8670

tofubeats「最近は関西じゃ踊れないんだよ!」

DSC_8739

tomad社長はいきなり金髪になっていた。

会場のキャパシティーが完全にオーバーしていて、床が抜けそうなくらい人が多かったのでちょくちょく外に出てはコンビニに行ったり散歩していたりしていたのだけど、深夜と早朝の歌舞伎町の雰囲気は思った以上に独特だった。夜も深くなる前の時間帯はいたるところに黒服のかたがたが一人でも多くの客をひっかけようとウロウロしているのだけど、1時を過ぎるとそういった人達もいなくなってしまって、人通りはあっても通る人の表情はそれまでの時間帯にくらべると明るくなく、どこか訳ありのような感じの人が多かった。朝になるとまた「日の出営業」で黒服だらけになって、店の前に落ちていた(たぶんカブチネに来ていた人が落とした)ゴミを捨てようと思ってコンビニのほうに走って行ったら「お兄さんヘルスどうですか、ヘルス」といいながら追いかけてきたり、男女で歩いているので絶対にキャバクラなんか行きそうにないのに「みんなそのリストバンドつけてますけどなんのイベントだったんですか」と商売抜きで声をかけられたりした。早朝の黒服はみんな笑顔で、夜の街の朝は思った以上にさわやかだった。

ダンスフロア合法化運動とかクラブカルチャーについて

おことわり:当初はタイトルを「ダンス合法化運動とかクラブカルチャーについて」としていましたが、現時点で法による規制を受けているのはダンス自体ではなくダンスをする施設なので、「ダンスフロア合法化運動とかクラブカルチャーについて」に変更しました(2012年6月2日 午前6時)

以前から風営法のダンスホールに関する条項について撤廃を求める署名活動があったり、選挙のたびに候補者に公開質問状をおくるなどの運動はあったのだけど、やはり坂本龍一なんていうビッグネームが動くと一気に話題になるんだなと思った。トーフビーツのフリーダウンロード曲も話題になっているし、やっと「もしかしたらやっとクラブを取り巻く状況も変化するのかもしれない」と少しだけ思えるようになってきた。

その一方で、やっぱりクラブカルチャー側の人間も、全く興味のないような人間も、どこかこの問題について認識が一致してないところがあって、そこが気になっている。自分の中で考えを整理する目的も含めて、しっかりとまとめておきたい。

最初にクラブカルチャー自体や現在おかれている状況について(クラブに行かない人にもなるべくわかりやすくなるように)説明して、最後に自分の意見を書きます。

Club OTO, 15 years birthday, Capsule dj set 1
Photo : dat

そもそも「クラブ」とは?「ダンス」とは?

クラブに全く興味がない人と風営法について会話してみた。

このTogetterを読んでいて思ったのだけど、クラブに行かない人にとってはクラブで行われている「ダンス」がどんなものなのか、あまりピンときてないように思う(「披露」ということばが出てきてそう確信した)。ある人はマイケル・ジャクソンのステージのバックダンサーのように、振り付けがあってピシっとキレのあるかっこいいものを想像するかもしれないし、ある人は在りし日のジュリアナ東京や映画のサタデー・ナイト・フィーバーのように、きらびやかな衣装で踊り狂うものを想像するかもしれない。

そもそもクラブで流れている音楽はゆったりとしたリズムのレゲエやR&Bから、急なテンポのガバ、ブレイクコアといった音楽まで様々なので一概には言えないのだけど、クラブに行かない人に多くの客の雰囲気を伝えるとすれば「ロックのコンサートに集まった若者の動きとだいたい同じ」でいいような気がする。もちろん、複雑なステップを踏む人もいるし、中にはいわゆるブレイクダンス(逆立ちみたいな姿勢でくるくる回ったりする)の動きをする人だっているしそういうイベントも存在するのだけど、多くの人はリズムにあわせて身体を揺らす・手を振る・手拍子を打つ以上のことはしていない。身体をほとんど動かさず音楽を聴いているだけの人だってたくさんいる。

クラブの魅力は、家では出せないような大きな音で音楽を聴けること、それを友達やたまたま居合わせた人たちと一緒に(お酒なんかも飲みながら)楽しめること、というのが大きい。そしてこれはクラブに行かない人にとってはなかなか理解できないことだと思う。

法律と、今のクラブが使っている抜け穴について

今回問題になっているのは「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」で、正式名称では長すぎるのでここからは「風営法」と書く。

客にダンスをさせる施設は、この法律の第二条の三に相当することになっている(ここから、風営法に従った営業を三号営業と呼んだりする)。

ナイトクラブその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客に飲食をさせる営業(第一号に該当する営業を除く。)

風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律

ナイトクラブが規制の対象として明文化されたのは1959年で、その後1984年の大改定時には深夜の営業も規制された。BPM Presidents featuring TINNIE PUNXの楽曲「Hoo! Ei! Ho!」には当時の雰囲気がよく現れている。

風営法は今世紀最後の禁酒法ってことさ
本気で守っちゃ損する 馬鹿だよそんなの
見つからなきゃいいんだから 、絶対
風営法は単なる嫌がらせに決まってるんだから
本気で怒っちゃ損するドアだけ閉めときゃ
 バレないさ、バレないさ、HOO!!

(映像はYOU THE ROCK★によるカバー楽曲「Hoo! Ei! Ho! '98」)

この頃は「クラブ」という呼び方はあまり一般的でなく、「ディスコ」が中心だった。風営法改定後も90年代前半にはマハラジャやジュリアナ東京のような大きいディスコが流行っていた時期もあった。しかし流行の変化から、「クラブ」へと主流が移っていく。「クラブ」は小さな店舗が多く、特定のジャンルの音楽を深く掘り下げたイベントを行い、常連客からの収益を中心とした営業ができた。

日本でいう「クラブ」とは、風俗営業の認可をとらず、飲食店として営業している店舗を指している。風俗営業としてしまうと、内装や機材などを許可無く変更できなくなるし、なによりも午前0時(地域によっては午前1時)を過ぎての営業ができなくなってしまう。そもそも、面積の小さい店舗は申請ができない。音楽が聴ける飲食店というかたちであればこういった制限を受けることがなく自由に営業することができた。

こういった飲食店の店内はDJブースとバーカウンターと少数のテーブルがあるだけで、大部分の床はダンスフロアとして機能する。もちろん、これだけでも風営法のナイトクラブの規定にはひっかかってしまうので違法なのではあるが、1984年の風営法改定時の付帯決議の存在もあって、事実上黙認されてきたと言える。

ところがここ数年、特に関西圏においてクラブの取り締まりが厳しくなり、しかも多くの店が深夜のイベント中に突然警察が来て営業停止、という状況になっていて問題視されている。この動きは全国に広がっていて、先日は福岡のO/Dで電気グルーヴのメンバーとして有名な石野卓球のプレイ中に警察が来て営業中止になった。取り締まりが厳しくなった地域では、風営法の許可を申請しようにもさまざまな理由でそれをすることができず、取り締まられる前にクラブとしての設備を撤去したり閉店したりする店舗も多く出ている。

そうした中で、今回坂本龍一氏らが呼びかけ人となって、大規模な署名運動が始まったというのが現状だ。

クラブカルチャーは「健全」になれるのか

前置きのつもりで書いていたら長くなってしまったけれども、ここからは僕の考えを書きます。

 以前からも、そして今回も「日本のクラブはどこにいってもいい人ばかりで安全で健全な文化」というようなことを言っている人がいるのだけど、それは少し暗い面に目をつぶりすぎだと思う。残念ながらクラブのような場で薬物が出回っていたりする事例は多々あるだろうし、クラブ自体の騒音問題があったり近隣に迷惑をかける客がいたりするのもすべて事実だろう。

幸いにも僕はクラブで危ない目にあったことがないのだけど、それだけでクラブカルチャーがすべて健全だと言えるとは思えない。そもそもダンスミュージックの文化の発展のそばにはいつも薬物の影があって、アシッドとかサイケデリックなんていうのはドラッグ用語だし、レゲエはその背景となる思想の根底に大麻の存在があるしで、そういった歴史や、実際に治安の悪化の要因となっている現実、薬物所持で逮捕された人たちがクラブで入手したと供述しているといったようなことを完全に無視して「僕たちは健全に音楽を愛しています!だからダンスを合法化してください!」というのは虫が良すぎる。社会からのクラブカルチャーへの印象は当事者たちが思っている以上に悪い。

では、非合法のままでいいかといえば、僕はそうとも思わない。ほとんどの店では店側も客も健全に音楽やダンスを楽しんでいると信じているけれども、それでも中にはいわゆる「犯罪の温床」となっている店舗も存在していておかしくない。。このままダンスフロアが非合法でありつづければ、よりクラブカルチャーは地下化していくだろう。そういった中でクラブの「犯罪の温床」化はより深刻化していくことは十分予想できる。店側が違法なダンスフロア営業を摘発されたくない状況で、店内での犯罪行為を防ぐことができるとは、僕は思えない。

だからこそ、僕は警察官が堂々とクラブに入れるようにするためにも、ダンスフロアの設置が合法になったほうがいいと思っている。悪いのは深夜に酒を飲みながらダンスをすることでも客を踊らせることでもなく、犯罪行為のはずだ。堂々と合法的に運営されているクラブで、不法行為があればちゃんと取り締まれるようになれば、安心してクラブで遊ぶこともできるし、近隣住民も安心できるだろう。

もちろん、合法になったクラブでの逮捕者が一人も出ないことを僕は願っている。

午前3時、クラブにパトロールをしにきた警察官の帰りを、踊り疲れてドアの近くで水を飲んでいた若者が笑顔で見送る、そういうクラブカルチャーになっていてほしい。

追記(2012年6月2日 午前6時)

言葉が足りなかったところと、言い足りないなと思ったところを追記します。

まず「ダンス」の動きについてですが、「ロックのコンサートに集まった若者の動きとだいたい同じ」という表現でもわかりにくいかもしれない、と知り合いに言われました。はてなブックマークでのコメントでも「そんなに疲れるわけがない」というような意見を頂いています。このあたりは実際に体験してみないと肌感覚としては難しいかもしれません。

もしわかりにくいと思った方は、上に貼った「朝が来るまで終わる事のないダンスを」を聞きながら、膝を軽く動かしてみるといいかもしれません(自宅で踊るぶんには法規制を受けないと思うのですが騒音や振動には気をつけてください!)。この曲はBPM124(1分間の拍の数が124)のゆったりめの曲ですが、低いドラムの「ズン」の音にあわせて膝を軽く曲げ、そのすぐ後のハイハットの「チャ」の音で膝を伸ばす(この曲では少しわかりづらいかもしれませんが)、この動きを1曲ぶんやるだけでも結構な運動になります。DJは曲と曲の間をノンストップでつなぎますし、多くの人はもう少し激しく動くので、オールナイトのイベントに朝までいるとかなり疲れて家に帰ると昼過ぎまで寝ないとキツい状態になります。

なによりも大事なのは、クラブでの多くの人の「ダンス」は、社交ダンスのようにパートナーとのコミュニケーションのためのものでも、ステージの上での人に見せるためのものでもなく、自分が音楽を楽しむためのものであるということです。スピーカーから爆音で流れる音楽に身を任せて全身で音楽を感じているだけで、「ダンス」をしているということになって、規制対象となってしまうことが今回問題とされていることのひとつなのです。

大阪のNOONというクラブは、客がこういった「ダンス」をしていることを理由に、22時前にもかかわらず摘発されました。坂本龍一氏が呼びかけている運動で風営法から「ダンス」に関する条項を削除しようと主張しているのは、深夜営業のためだけではなく、第一にこういった「ダンス」を客がしているだけで摘発されてしまう不自由さの改善のためというふうに読み取れます。

それからクラブの時間規制について。今回の記事はクラブに行かない人にもわかりやすくなるように意識して書いていて、その中でどうしても「なぜ深夜でないといけないのか」という疑問に「クラブに行かないとわからない」以外の答えが見つからなかったので、あえて外して書きました。記事に対する反応にはやっぱりその点についての疑問がみられました。自分の感覚では、深夜のイベントと昼や夕方のイベントではどうしても雰囲気が違ってくるし、全時間帯をとおしてクラブイベントがいちばん盛り上がるのは午前0時過ぎから午前3時ごろだと思っています。

深夜にクラブの外で騒いだり、周辺にたむろしたり、店舗から騒音が漏れてしまうのはやはり問題でしょう。とはいえ、そういった点で周囲に迷惑をかけなければ、深夜に人が集まることに関しては許してもらいたいものです。いま営業されているクラブの経営者の方々は、このあたりで周辺の住民の方々の理解を得るためにかなり努力されているらしいです。店内にこういった内容の注意書きが貼られている場合も多々あります。

そして警察のこと。僕は「クラブに警察を入れろ」とか「警察に監視されてクラブイベントをやれ」とか言いたいわけではありません。クラブイベントに警察が来るのはやっぱり嫌だし、特に警察が来たというだけで音が止まるのだけは絶対に阻止したい。

ただ、合法化するというのは、多少の不自由を受け入れざるをえないということだと思っています。だからこそ、警察が来たけど誰も踊るのをやめないし、中を見回しても誰もドラッグなんかやっていない、仕方がないから警察は手ぶらで帰らざるをえない、という状態を僕は目指したいのです。「笑顔で〜」というのはそういう趣旨で書いたのですが、実際には笑顔は笑顔でも中指を立てているかもしれません。とにかく、何らかの形で社会との融和を目指しつつ、自分たちの楽しみだけは絶対に譲らないという姿勢が必要だと思います。

社会から見てクラブは「不健全」な場ですが、「犯罪の温床」だとは限りません。たとえばオールナイトのイベントだけはIDチェックが必要というかたちで規制が残ってしまうとしても、それは仕方がないでしょう。それよりも現在の多くのクラブのような、小さな面積で深夜まで営業している店が、どうにかして現在の業態を保ちつつ合法に営業できる状態にできないかということを考えています。今のまま、クラブは非合法だけど黙認されている状態でも、僕のような客は音楽が流れているダンスフロアがどこかに存在していれば、そこで踊ることができます。そういう立場では今のままでもいいと言ってしまえるのですが、クラブを運営する側はそうはいきません。一度摘発されてしまえば、もうそのダンスフロアはなくなってしまうのです。

 

ふだん天気予報を見るという習慣がないので、よく出先で雨がふりだして傘がないという状況に陥る。そもそも2〜3分なら傘なしでも歩けると思ってるので、普段の生活なら傘がなくてもあまり困ることがないのだけど、突然予定を変えたくなったりするとやっぱり傘を買わなきゃいけなくなる。

ビニール傘を持ち歩いているとき、お店とかに入るときに、入り口の傘立てにビニール傘を置いておくと、いつの間にか自分のっぽい傘がなくなっていることがある。そういうとき、本当にこれだったっけと思いながら一番似ている傘を持っていく人が多いと思うのだけど、もういっそビニール傘は全部社会全体の共有物みたいにしちゃったほうがいいんじゃないかと思っている。

出先でビニール傘を買ってしまうとそれを持ち歩くのが邪魔だし、いっそのことどっかそのへんに捨てて帰ったら、また次に雨が降ったときにたまたまそこにいた人がその傘を拾って使える、そういう共通認識みたいなものを社会全体が持っていたほうがぜったいに幸せになると思う。もし日本が1.5倍くらい広ければいろんな人が捨てていった傘を置いておける場所も増えるだろうし、誰かが捨てていった傘がいろんな店の軒先とかに適当に置いてあって雨が降ったら適当にそこから拾って使っていいみたいなルールになってほしい。こんなに中途半端に長すぎず短すぎず雨が降る国土なんだからぜひそうなってほしい。

前に京王線の駅には無料の貸し傘があって、雨が降ったら持って行っていいことになっていたんだけど、返す人が少なすぎて結局廃止されてしまった。返さなきゃいけないのはめんどくさい、というのは当たり前だし、傘を持って行ったら適当な場所に返せて自動的に傘が多すぎるところから傘を回収して足りないところに補充されるみたいな仕組みがあればいいと思う。そういう会社が傘に広告を入れて回収分配費用を賄うとかでうまくいかないかな。あとやるんだったらビニール傘よりもうちょっと耐久性のある傘でやってほしい。

イチローの書いた作文として出回っている画像について調べた

ここ数日、Twitterやらfacebookでやたらと「イチローの小学生時代の作文」として1枚の画像が出回っていたのだけど、文字が不自然に揃っていて偽物なのではないか、という話題も出ていた。
facebookにリンクを貼るのもアレなので、有名そうなブログに掲載されているのにリンクを貼ります
そこで、ちょっと調べてみることにした。Googleイメージ検索は、画像から類似画像を探すことができるので、同じ画像を載せているサイトをすべて観て、そのページの作成日時などを調べていく。
多くはここ数日だったり、あるいは去年だったりしたのだけど、ひとつだけ2009年のブログ記事にたどり着いた。

階段の踊り場に
一枚の作文が貼り出してあったので
何気なく読みました

野球を一生懸命に頑張っている少年の作文でした

(中略)

有名人になると
小学生の時の作文まで全国区になるんだ・・・

そんなことを考えながら
写メ撮りました

http://mamakotomkm.blog40.fc2.com/blog-date-200912-1.html

そしてこの記事の最後に、例の画像が貼られていた。画像のExif情報を見ると2009年12月22日で、この記事が書かれたのが12月26日だったので、おそらくここに書かれている通り小学校の踊り場に貼られていたものを撮影したのだろう。

そもそもの初出

イチロー 作文」で検索すると、今回出回っている画像以外にもたくさんのページがヒットする。たとえば2004年に書かれたものとか、2006年に書かれたものとか。後者によると、この作文はイチロー物語という本に載っているらしい。
ところで、今挙げた2つの記事と今回出回っている記事の文を比較すると、細かいところの表記に差がある。句読点の有無や、「僕」「歳」などの漢字表記がそれぞれ微妙に異なっている。唯一出典が書かれている「イチロー物語」のものは「ぼく」「才」という表記をしている(もっとも、「イチロー物語」を僕は読んでいないし手元にもないので、本当にこの表記がされているのかわからないのだけど)。
検索をすすめるうちに、オリジナルの作文と思われる画像が掲載されているページも発見した。
http://dastagesbuchderheidi.up.seesaa.net/js/ichiro.jpg:image:w500
この画像について詳しいことは書かれていないが、「僕」や「歳」が「ぼく」や「才」だったものを読みやすく書きなおしたものが何らかのメディアに掲載されたのが広まっているのではないかと考えられる。わかりやすい美談として大人が読むために、そういう改変をした人がいたんじゃないかと思っている。

例の画像は

イチロー作文の画像として出回っている画像のフォントを、いくつかの有名な手書き風フォントと比較していくと、あくあフォントとそっくりなことに気づいた。そこで実際にあくあフォントを使って例の画像を再現してみた。
f:id:ymrl:20120128130635p:image
「の」の形状や「ラ」が右側にズレているあたりが特徴的だと思う。

イチロー作文とは何だったのか

ここまで調べたり試したりしたことをまとめると以下のようになる。

  • イチローの作文「僕の夢」はおそらく実在のものだが、表記などを書きなおした版が存在している
  • 数年前からイチローの作文はインターネット上に出回っている
  • 今回の画像は、あくあフォントを使って印刷したものが小学校の壁に貼られていたものを撮影したもの
  • 撮影者がブログに掲載した画像が、いつの間にか誰がいつどこで撮影してアップロードしたものだという情報が欠落した状態で転載が繰り返されている

いつ誰が作文のいかにも子供らしい表記を書き換えたりしたのか、ということだけはわからないのだけど、おそらく「いい話」として紹介するために、そういう形に改変したのだろうという気はしている。そして小学校の先生がそういうものを読んで生徒に紹介しようと思って階段の踊り場に掲示したのだろうというのは容易に想像できる。
インターネットにはとてもすべてをしっかりと味わえないほど大量のコンテンツが流通していて、その中で「いい話」があるとついつい「いいものを読んだ」気分になって「いいね!」を押すなりシェアするなりブクマするなりして素通りしてしまうのだけど、特にそういう「いい話」は出自がかなり怪しかったりすることが多い気がする。今回は本物っぽかったけれども、「感動できる」「泣ける」みたいなことを言われてるネット上のコンテンツは書籍から勝手に転載してるか多分に嘘を含んでるかだと思って読んだほうがよさそう。

2012/01/30 追記

@から、なにも言ってないのに「新編イチロー物語」が送られてきたので作文の掲載されているページを探した。62〜63ページにあった。引用の要件に入りそうなので、該当ページをスキャンした画像を掲載する
f:id:ymrl:20120130181020p:image
「新編イチロー物語」に掲載されている版では、TERRAZINEの記事には存在している改行はいっさいない。そして、最初にこの記事を書いたときに気づかなかったのだけどタイトルは「夢」として紹介されている(本物の原稿用紙と思われる画像では「夢」だが画像が出回っている版では「僕の夢」)。やはり、2004年のFPNの記事にある「僕の夢」はどこかで描き直された版であると思われる。
引用元が記載されていない情報について調べているので当たり前といえば当たり前なのだけど、この書きなおした版のオリジナルを探す方法がいまのところ見つからないのでそろそろイチローの作文探しをするのは限界にきている気がする。またなにかあれば追記しようと思う。
すこしずつ作文の細かい所が違ってきているので、


みたいなことはできないかと思ってはいるのだけど……

2012/01/31 追記

その雑誌とは、ベースボールアルバム No.119「イチロー 新打撃王誕生!」(ベースボール・マガジン社 1994)です。

http://airoplane.net/2012/01/30/ichiro-sakubun.html

どうやらこの雑誌に、例のイチロー作文の原稿用紙写真が掲載されているようです。上に掲載した原稿用紙の画像もこれと同じもののようですね。