いんたーねっと日記

141文字以上のものを書くところ

今さらブログは流行らないよね

はてな近藤社長の「なぜ今、ブログなのか」を読んで。

僕が blog という言葉を意識したのは「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない」という一文だった気がする。このエントリは当時インターネットで日記を書いていたりした人たちを猛烈に怒らせ、ちょっとした騒動に発展した……という事件があったのだけど、今となってはもはやそういう騒動があったこと自体忘れられているのがすこしおもしろい。あの騒動のおかげでMovable Typeをはじめとしたブログツールが広く認知されて広がったというのは確かだろうけど、それでもその広がりを見ていたのは「一部の物好き」だったのだと思う。当時は個人でWebサイトを作るにはHTMLをテキストエディタで書いて、FTPクライアントでアップロードして……という作業が必要だったし、日記ツールやブログツールを使うためにはさらにその上でCGIを動かす知識が必要だった。ブログという存在は、そういう知識のある人たちにしか関心を持たれてていなかったのだと思う。

そのあとしばらくして、「ココログ」「livedoor Blog」「ヤプログ!」「アメーバブログ」のような、誰でも簡単にブログを持てるサービスが始まって、さらに芸能人や有名人(たとえば、ホリエモン)がそこでいろいろな発信をして、ようやくブログという存在が一般的なものになった。だいたい2005年か2006年くらいのことだと思う。

ここまで書いて思ったのだけどこの一連の流れにはてなダイアリーの出る幕があまりない。最初から「一部の物好き」が集まるサービスだった気がする。

当時のブログツールやブログサービスは、必ずといっていいほど「コメント」と「トラックバック」の機能があった。誰かが書いた記事に対してコミュニケーションをとりたいときに、ページに直接コメントとして書き込んだり、自分のブログに記事を書いてそれを通知することができた。ところが、有名人のブログならともかく、普通の人のブログにコメントがつくことは稀だった。トラックバックにいたってはスパマー用のインフラになりさがった。その当時、似たようなシステムが上手く動いていたのはmixiの日記機能だった。mixiの日記の読者はほとんどが自分の友人なので、日記の作者が自分のことを知らないということはあり得ないし、内輪だという安心感もあった。一方でブログ記事のコメント欄は全世界に公開されていて、知人のブログならともかく、見ず知らずの人の記事にコメントをつけるのはハードルが高かった。

「一部の物好き」の人たちにとってはウェブ上でこれまで全く接点のなかった知らない人へもむけて発信していくことはふつうのことで、その媒体としてブログツールなりブログサービスなりが便利だったのに対して、そうでない人たちにとってはやっぱりSNSのほうがよかった。ブログはやっぱり発信のためのツールであって、内輪でワイワイ使うのにはmixiが向いていた。ブログブームの勢いが落ちていったのはそこに一因があったのだと思う。

むかしはインターネットは家で画面とキーボードに向かって集中して使うものだった。ところがケータイでウェブを見るのが普通になってくると、それもまた変化していった。食卓とか、トイレとか、教室とか、いつでもどこでもウェブに繋がれるようになった。パソコンがないとインターネットが使えなかった時代は、その日のことをまとめて長文で書く日記というスタイルが最適だった。ところがケータイの時代が来ると、その時その場で見たものや感じたことをリアルタイムにウェブに書けるようになったし、多くの人にとってそのスタイルが気軽だった。中川翔子のブログがブログツール上でそういうスタイルをとった代表例だと思うし、Twitterの登場でよりそれが自然になった。Twitterは内輪のワイワイ感を演出するのにも向いていた。発言を見ているのはだいたいフォロワーだし、多くの人にとってそれはほぼイコール知り合いだからだ。フォロワーはいつでも一覧できるので、もし知らない人だったとしてもフォローし返せば知り合うきっかけになる。ブログに長文を綴るような物好きは、さらに「ごく一部の物好き」になっていった。

そういうことを考えていたら、はてなブログはやっぱり爆発的に流行るサービスとはとても思えなくなってきて、なぜ「今ブログなのか、しかもはてなダイアリーがあるのに」という点が疑問になってきた。ブログに長文を綴るという行為はどうしてもカジュアルさが低くて、やるぞと思ってやらないとできないことだし僕も何度も三日坊主にしている。はてなブログのテスターに応募するような人は結局「一部の物好き」だろうし、そういう人はすでに他に発表の場を持っていることが多いと思う。とりあえず触ってみたいというだけで、ちょっといじって放置する人も多いはずだ。今日までの僕みたいに。

はてなブログがこれから成功していくためには、「一部の物好き」をたくさん集めるか、そうでない普通の人たちに流行るような機能やデザインを取り込むかしかないのだと思う。Twittermixiボイスやfacebookのウォールはカジュアルすぎて、「ストック」にはなっていかないという近藤社長の思いには非常に共感するところがあるのだけど、まとまった量の写真や文書といったコンテンツを作るのが今でも大変な作業なのは確かだ。ただブログが書ける場所なのではなくて、「個」を表現できる場所になるような作り込みが必要なのだと思う。

大学の学内WebサービスをクロールしてWebサービスを作った話と、作りながら思ったこととか

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先日、僕の所属している慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の学生のためのWebサービスを作った。
http://履修選抜.死ぬ.jp
SFCでは毎学期のはじめ、授業開始の日から履修登録までの1週間ちょっとはショッピングウィークと呼ばれていて、どの授業にも自由に参加できて、1回目の授業を受けてから実際に履修する授業を選ぶことができる。希望者が殺到する人気授業や機材などの関係で人数を絞る必要のある実習系の授業は履修動機などを書いて提出する履修選抜があって、その結果は今年の春までは本館の掲示板に貼り出された紙から目を凝らして自分の学籍番号を探すことでしか知ることができなかった。



今学期から、これがSFC-SFSというキャンパス向けWebサービスで閲覧できるようになった。SFC-SFSはSFCの学生や教員が日常的に使うように作られたWebサービスで、この時期は授業を検索してシラバスを読んだり、気になる授業を登録すると時間割にして表示したりするのに便利に使われている。授業期間中は授業ごとにページが用意され、授業資料や講義映像が公開されていたり、課題を提出したりすることができる。履修選抜の結果もこの授業ページに表示されるようになった。
履修選抜結果がどこからでもWebで見られるようになったことは、これまで本館に行って人だかりの中A4の紙に小さな文字で印刷された自分の学籍番号を必死になってさがしていたことからすれば革命的だった。このキャンパスの学生は必ずしも毎日学校には来ていなくて、これまではしばしば「学校にいる人、〇〇の履修選抜通ってるか確かめてください」みたいな発言がTwitterにあった。

ところがひとつ問題があって、もともとこの時期はいつもSFC-SFSにアクセスが集中して動作が遅くなってしまうのに、履修選抜結果もその動作の遅いサイトを、数段階ページを辿らないと閲覧できないことだった。しかも選抜結果が公開される場所は授業ごとに別になっていて、複数の授業の履修選抜を通っているかどうかを確かめるためにはさらに時間がかかってしまう。自分が履修したい授業の選抜結果が公開されているかどうかはアクセスしてみないとわからないことも問題だった。

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僕は今学期には履修選抜のある授業を取ろうとしていなかったのだけど、履修選抜結果がどういうふうに公開されているのかに興味があったので、試しに履修選抜のありそうな授業をいくつか履修希望登録した。履修登録期間まではSFC-SFS上で履修希望登録をすることができて、こうすることでSFC-SFS上の授業ごとのページにアクセスできるようになる。履修登録結果は、このページからさらにリンクをたどった先で、学籍番号一覧のかたちで表示されていた。
さきほど引用した @helosshi24 さんの発言がそもそもそういうことをし始めたきっかけだったのだけど、ここに掲載される番号を全部集めれば、学籍番号を入れるだけで履修選抜を通った科目をチェックできるようになるんじゃないかと思って、とりあえず全ての授業ページを閲覧できるようにするために全ての授業に履修希望登録をする作業をはじめた。幸か不幸か、SFC-SFSを機械的にいじるのは非常に簡単で、履修希望登録用のURLにGETメソッドを送るだけで登録が完了した。ログインする処理を書くのは面倒だったので、Bookmarkletをつくってブラウザ上で処理をした。時間割はよく知らない名前の授業で埋まった。
http://gyazo.com/c678410393f21f5a5f37560e7d6e3b25.png
この日の真夜中にSFC-SFSの中のページを取得して履修選抜結果を収集するスクリプトを完成させて、そっけない見た目のWebサイトも作った。スクリプトは1度全部の授業の情報を取得したあとは、履修選抜がなかったり結果を取得済みのものについてはそれ以上アクセスしないように作った。

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SFCの情報化は、日本の大学としてはかなり先進的な進み方をしているのだけど、それでも改善を望まれているものは多くて、学生が勝手にそういうところを穴埋めするWebサービスをつくることもよくあった。僕も出席に予約が必要な体育の授業の空き状況を発言しつづけるTwitter Botや、現在は止まっているものの授業の場所や担当者を教えてくれるTwitter Botを作ったことがある。むしろ中途半端に情報化しているからこそ遊び半分でこういったプログラムを作りやすいという面もある。
体育の予約状況や授業の時間割はWebに公開されている情報なので、気軽にその情報を転用して好き勝手することができた。でも今回はわけが違って、SFCのアカウントを持っていないと見ることができない情報を公開してしまうので、正直なところ少なからず抵抗があった。
もともと僕が作った体育のbotは、自分が体育の授業の予約を自動でするスクリプトを書いたときのコードを応用したものだった。SFCの体育は、1年生の最初の学期はクラス制で必修であるものの、そのあとの2単位は3年生までに取り終えればいいことになっていて、これには合計30回の出席が必要になる。いつどの授業に出るかは全くの自由で、Webから予約をしなければ出席としてカウントされない。僕は運動が苦手なので楽な授業に出たいのだけどそういう授業は人気が高く、抽選かキャンセル待ちでしか予約をすることができない。そこで、毎週必ず抽選に応募して、さらに抽選に落ちた場合には根強くキャンセル待ちをして空きが出た瞬間に予約を押さえるというプログラムを書いた。
SFCでは体育は必修なのだけれども、僕のように楽な授業だけで終わらせたいという需要は多く、僕の作ったプログラムもWebサービスとして公開すればいい商売になるんじゃないのと(冗談交じりに)よく言われていた。ただ、予約を自動化するためにはその人からアカウントとパスワードを預からなくてはならなくて、それはもしトラブルが起きたときに責任が大変なことになるので絶対にやりたくなかった。
ここでいうアカウントとかパスワードとかいうものは、SFCのCNSというネットワークですべて共通のもので、これさえあればSFC-SFSにログインして提出済みの課題を全部消すことも、メールを盗み見ることもできてしまう。そんなものを預かるのはあまりにリスクが大きすぎた。
しかしそういうリスクを背負ってでも個人でサービスを公開する人もいて、昨年には履修履歴から次に履修する科目を推薦する「時間割メーカー」というサイトが、先日も「進級・卒業要件チェッカー」がそれぞれ登場した。どちらも学内WebサービスのIDとパスワードを(後者はCNSではなくて慶應共通のアカウントだけれども)入力させ、データを取得するというかたちになっている。

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学内サービスにログインしていろいろ操作できるだけの情報を預かるようなサービスに比べれば、僕の履修選抜結果を検索するサービスは大したことないだろうとは思う。しかしそれでも、学籍番号というものがどこまでの運用が許されるべきものなのかがよくわからなくて、公開するのに躊躇した。学籍番号は隠されているべきものなのかもよくわからないし、学籍番号を知っていればどの授業を履修しようとしているかがある程度わかってしまうことももしかしたら危ないのかもしれない。
論理的に考えれば、僕がしていることはSFC-SFSにログイン可能な人であれば知ることができる情報を収集しているだけだ。だからSFC生に公開することは問題ないのだろう。しかし、外部の人間が僕の作ったWebサイトをクロールすることで、有効な学籍番号と、その学籍番号をもつ学生が受講している可能性が比較的高い授業のリストを知ることができる。もしそうやって授業にストーカーが紛れ込んだら、その被害について僕にクレームが来たらどう対応していいのかわからない。
サイトを作ってから1時間か2時間くらいそういうことを考えて、しかしせっかく作ったし、なにより学校側が提供するサービスより便利に使える場面もあるだろうと思って公開した。履修選抜結果のリストは学外からのアクセスに対しては授業名を伏字にするという配慮をして対応した。伏字にして表示すれば、本人はとりあえず何かの科目の選抜に通ったんだという判断をすることができて、それがどの授業か確かめたければVPNを使ったり学校に来たりすればいいわけだし、外部の人間はどの授業に行けばその人に会えるのかはわからないという状態になる。外部の人間にとってできることは、どこかで拾ったりした学籍番号が有効なものである確証を得られるくらいしかない。

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正直なところ、いちばん怖かったのは情報を公開したことでトラブルが起きたり学校側に怒られたりすることではなくて、「機械的に情報を収集している人がいるのがなんとなく怖い」と思われてしまうことだった。今回の履修選抜にしろ体育にしろ、僕がやっているのはがんばれば人間でもできることで、たまたまそのプロセスをプログラムを書いて自動化しているにすぎない。今回はそういうことがなかったのでひと安心している。
金曜日の夜、バイト先の人に「最近なにしてるの」と聞かれたのでこういうサイトを作ったという話をしたら、「それはやまあるが作るんじゃなくて学校側がオフィシャルに実装するべきなんじゃないの」ということを言われた。たしかにそのとおりで、自分が選抜を通った授業の一覧がすぐに見られるようになっているべきというのは、これからSFC-SFSが公式に実装していくべきものだと思う。しかしおそらくそれが実装されるとしても次学期以降になるだろうし、誰も提案したりしなければこの先ずっと作られないかもしれない。そういう点で意義のあることをしたのではないかとは思っている。

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ところで、SFCでWeb関連の動きがあると「さすがSFC」のような言葉がキャンパス内外から飛んでくるのだけれども、僕はあんまりそういう状況が好きではない。ここまで文章を書いてきて、あらためてSFCの情報化はまだまだ中途半端だということを再認識したし、そういう環境が僕にとって楽しいのは確かだけれども、それを必要以上に褒めるのはやはりおかしいと思う。
SFCにいるプログラマ界隈では、しばしば冗談まじりにSFC関係のWebサービスのAPIが欲しい、OAuthでアクセスできたりしてほしいという話をしているのだけれども、学校が公式にそれをやるというのもちょっとおかしな話だと思っている。そもそも体育の予約が必要なのはなんでなのかとか、SFC固有のCNSアカウントや慶應全体が使っているkeio.jpのアカウントがある上に履修申告用のパスワードがあって新入生が毎年混乱しているをどうにかできないのかとか、もっと学校側が頑張るべき課題が大量にあるし、学校側が勝手アプリを作ることを奨励する段階ではない。ただ、学生の側からのフィードバックがもっと反映されていけばいいな、と思っている。

震災と、「眠りつづけて死ぬ」のこれまでと、これからの話

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当時の写真
2010年8月20日、僕は@の呼びかけで目黒二郎に行くオフ会に参加した。このときは10人くらい集まって、完食したあとみんなでその近くにある目黒寄生虫館に向かった。ホルマリン漬けにされた寄生虫や寄生された動物の標本なんかをはしゃぎながら見ていたのだけど、2階の世界中の寄生虫由来の病気について解説された展示の、病気にかかった患者さんの写真に僕は目を奪われた。
屋外に上半身裸で横たわる男性の写真の下には「このまま眠りつづけて死ぬ」とだけ書かれていた。
これはツェツェバエが媒介する寄生虫トリパノソーマによる病気「睡眠病」の患者の写真で、この男性はこの病気の患者で痛ましい写真のはずなのだけど、その下に「このまま眠りつづけて死ぬ」とだけキャプションが書いてある状況があまりにシュールで、きっとこの言葉を選んだ人はこういう反応を狙っていたわけではないのだろうけど、非常にハイセンスだと思った。目黒寄生虫館を出てから目黒駅まで歩く間、この「眠りつづけて死ぬ」というフレーズのことで盛り上がって、その場でこのフレーズを使ってできる一番面白いことということで、Webサービスを作ることを思いついた。
当時は「なるほど四時じゃねーの」というWebサービスが流行っていて、Twitterを使っている誰もが(と言うと言い過ぎかもしれないけど)「なるほど四時じゃねーの」というフレーズを知っているという状況になっていた。これを真似て、自動で「このまま眠りつづけて死ぬ」と発言するようにすれば流行るんじゃないかと思っていた。そして、たとえば朝に待ち合わせなんかをしたときに、なかなか現れない相手のTwitterの発言を見に行ったら「このまま眠りつづけて死ぬ」と書かれていたらインパクトがあるよな、というふうに考えた。そういう理由で、「8時間発言をしなかったら『このまま眠りつづけて死ぬ』と発言する」という仕様を目黒駅につくまでの僅かな時間で考えた。
このころはまだ夕方に田園都市線沿線の某所で塾講師のアルバイトをしていて、目黒から直接向かうにはまだ早い時間だったし、せっかく面白いWebサービスのアイデアを思いついたので作りたい気持ちもあって、渋谷のルノアールで持っていたネットブックを使って2時間くらい作業することにした。まだOAuthの仕様をちゃんと把握していなかったので、渋谷のルノアールでの作業の半分くらいは認証部分の製作にあてた。このあいだ、hironicaは向かいの席でわりとマジメな作業をしていた気がする。hironicaと別れてアルバイトに向かう間もコードを書いて、5時間のアルバイトのあともコードが書きたくて仕方がなかったので、中央林間のマクドナルドで終電近くまで粘ってコードを書き続けた。
そして基本的な機能が完成して、家に帰ってサービスとして公開した。


サービスは徐々にユーザーが増えて、いつの間にか数千人が使うようなサービスになっていた。それに従ってコードにも手を加えて、発言するまでの時間を自分で設定できるようにしたり、なるべくクロール回数を抑えるようにしたり少しずつ並列化したりしたのだけど、大元の部分はこの日に1日で書いたコードがそのまま使われて現在まで動きつづけている。今年のはじめにたまたま「死ぬ.jp」というドメインが取れてしまったので、URLも http://眠りつづけて.死ぬ.jp/ に変更になった。

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2011年3月11日、僕は大学院の入学手続のために学校に行くことになっていた。その前日にSkypeのチャットで大学の先生に別の事務手続きを頼まれていて、その2つの用事が終わったらお台場の科学未来館で開かれていた学会に向かうか、夕方からの塾のアルバイトに行くか、時間次第で決めようと思っていた。
事務の手続きは連絡の行き違いなどで手間取って、全部終わったのは14時ごろだった。これは学会に行くのは無理だなと思って、それなら研究室で時間を潰して夕方にバイトに行こうと思っていたところで、大きな地震がきた。その場でiPhoneだけ掴んで机に潜った。もうこれで東京は終わるのかなと思った。潜っていた机のすぐ真横で本棚の上にあったランプが落ちて割れた。
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最初の揺れが収まってみると、あちこちで物が落ちたり割れたりしていた以外に大きな被害はなくて、余震は続いていたものの、研究室のメンバーやネットの向こうにいる人に状況を伝えようと思ってとりあえず写真を撮って、廊下にいた掃除のおばさんに箒やちりとりを借りて片付けをしたりしていた。やがて放送が入って、構内にいる人は全員グラウンドに避難するようにとの指示だったので、グラウンドに避難した。
グラウンドに行っても特にやることもなくて、それより家の冷蔵庫の上にあったお酒の瓶などが割れていないかが心配だったので自転車で帰宅した。
家に帰ると、お酒の瓶は無事だったものの、台所で土鍋が落ちてその蓋と、下敷きになった皿とマグカップが1つずつ、洗い物を干すカゴに入れてあったビアグラス1つが割れていたのと、液晶モニタが1つ落ちていたのと、CDを詰んであった山が崩壊していた。停電の形跡もなかったし大丈夫だろうと思って、電車が止まって帰れなくなっている人がいたら受け入れるという旨をTwitterに書いた。2人がこれに応えたので、営業を再開したスーパーで買い物をしてカレーを作って、3人でテレビ2台をつけっぱなしにして情報を収集しつつ食べた。
この晩、「『眠りつづけて死ぬ』が不謹慎だと言われたらどうしよう」という話をしたりしていたし、そのことをTwitterに書いたりもしていたのだけど、このときはそこまで深刻にそのことを考えていなかった。
地震の翌日は、あちこちで店が閉まっていたり物資が不足していたりしていて、テレビはどこの局も地震の話ばかりしていてノイローゼ気味だったし、無気力に生活していた。
ふと思い立って眠りつづけて死ぬで使用しているデータベースから、地震の直前の24時間に発言していて、そのあとの発言がない人を検索してみたら数十人が出てきた。それと同じころ、「この時期に『眠りつづけて死ぬ』は洒落にならない」「嫌な気分になる」という発言をいくつか見かけて、さらにそういうmentionも飛んで来るようになった。被災地の情報を優先させるためとか節電のためだとか不謹慎だからとかいう理由でTwitterで使用していたbotの運用を止めようなんていう話題もあった。そろそろ限界なのかなとも思った。

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そもそも、「このまま眠りつづけて死ぬ」は最初から不謹慎さや悪趣味さを自覚して作っていた。おかげで作ってすぐの頃に2chに晒して叩こうとした人もいたみたいだし、あまり精力的に探したりはしていなかったけど(なにせ「このまま眠りつづけて死ぬ」というフレーズをばら撒くためのサービスだったので、検索から反響をすべて探すのは不可能だった)万人に好評だというわけではなかった。あたりまえだと思う。僕は別に病気の人をバカにしたり死者を冒涜したりしたかったわけではないし、単に「このまま眠りつづけて死ぬ」というフレーズが面白いからそれをつかって面白いことをしようと思っただけだった。
人の「死」というものに触れたのは小学校高学年のころに父方の祖父が死んだのが初めてで、その数年後に祖母が、眠りつづけて死ぬを作る1年少し前にはお世話になった中学高校の先生が、そして春には母方の祖父が亡くなった。人が、とくに身近な人が死ぬことは悲しいことだと思うし目を背けたくなるのは理解できるけれども、だからといって「死」に関わるものすべてを排除するのはおかしいし、そもそも不可能だ。人はいつか死ぬ。

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眠りつづけて死ぬについて嫌悪感を示されるだけではなくて、具体的にこうしたほうがいいという意見をいただくこともあった。おおまかに分けて「しばらくの間停止させる」というのと、「文言を震災関連のメッセージに変える」という2種類だった。
しばらくの間停止させるのは簡単だけれども、いつ復活させるべきなのかを判断するのが難しいのでやりたくなかった。もうサービス自体をやめてしまって二度と復旧させないのならばともかく、一時的に停止させるならいつか復旧させなければならない。もし誰かに配慮して停止させてそのあと再開させるとしたら、結局配慮した相手の何割か何分か何厘かへの配慮を打ち切って再開することになるはずだし、そんな中途半端なことはしたくなかった。それに、いつでも誰かが死んでいるのに、たまたまたくさん日本人が死んだからそれに配慮して全く無関係なサービスを止めるのも、なんだか不平等・不公平な気がしていた。
さらに、文言を変えるというのは全てのユーザーの裏切りだと思っていた。「一定時間(1〜999時間の間で設定可能)Twitterに発言をしていないアカウントで『このまま眠りつづけて死ぬ』と発言するためのWebサービスです。」という説明でユーザーのアカウントへのアクセス権限を預っている以上、そこから外れる行為をしたくなかった。以前「テスト」と称して「なるほど四時じゃねーの」が特定の発言をfavoritesに追加するという動きをして大問題になったのを覚えている人は多いと思うし、「被災地のためだから」で許されるとはとても思えなかった。
テレビはどの局も地震の話題を流していて、楽しみにしていた番組はぜんぶ放送中止だし、インターネット上でも楽しいことをするのが許される空気ではなかったし、地震のすこし後はかなりうんざりしていた。被災地のことなんてそのときは自分に関係のない話だったし、物資不足でボランティアを受け入れられないという話だったので、義援金を送ったりする以外には積極的に何か動こうなどとは思っていなかった。今思えばsinsai.infoやprayforjapan.jpに何らかのコミットをしておくべきだったんじゃないかと思うけれど。
しかし手元のサービスのデータベースでは、あきらかに東北の被害の大きかったところの人たちが、地震のあと発言を絶っているとしか思えないような検索結果が出ていた。数千人に自分の作ったものが使ってもらえているという状況はこれまでになかったし、やっぱりここで誰かが死んでたら嫌だな、と思った。こうして、このリストを公開することに決めた。
このときTwitterで自分の考えと「お知らせ」として書いたことは、@togetterにまとめてくれている。このときはテキストエディタに長い文章を書いて、それを文ごとに切ってなんとなく140字に収まるように調整したのだけど、かなりミスをしてあちこちでハッシュタグを間違えてしまっている。
リストの公開とともに、まず呼びかけたのは「自己判断で、眠りつづけて死ぬの使用を停止したり発動条件を変更したりする」ことだった。自分としてはとにかくこれまで書いた理由でトップダウン的にそういう配慮をしたくはなかったのだけど、ユーザーが自分で判断してするのであれば全然構わなかった。

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このときにリストに載っていた人たちの安否はなんとか確認された(1つだけprotectedのなりきりアカウントが残っているのだけど、なりきりアカウントなので運用を停止しているだけの可能性が高いと判断した)。リストに載っているアカウントを監視して、発言があったり間違いだったりした場合に教えてくださったりリストを編集してくださった方には感謝しています。本当にありがとうございました。
今回は「震災直前の24時間に発言をしていたのにそのあとの発言がない人」を対象にリストを作るやりかたをとったけれども、このやり方はどう考えても完璧ではなくて、たとえば地震にあった直後は無事で発言していた人が、そのあと津波やその他の理由で何らかの被害にあっている可能性がある。たまたま海外に行っていた人を拾ってしまっていた例もあるし、地震前の24時間にたまたま発言しなかったユーザーが地震で亡くなってしまっているかもしれない。それにそもそも、こんなリストを作ったところで誰かが探しに行くわけでもないし、ただその人が発言していないということがわかるだけでしかなかった。自分のやったことは何一つ賞賛に値しないし、クソの役にも立たないサービスを運営している人間が偉そうなことを言って本当に死んでいるかもしれない人をリストアップしただけだった。春休みが1ヶ月伸びたのにそのあいだ暇を持て余していたし、後悔することしかできない。とはいえ、今後もし同じような大災害が起きたら、真っ先に同じようなリストを作るはずだ。もちろんサービスは絶対に停止しない。

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今回の件で少し面白かったのは、地震のあと眠りつづけて死ぬのユーザーが増え始めて、地震のとき4000人程度だったのが現在5700人あまりにまで増えている。そして「実用的な遺言サービス」だとか「災害時に便利」だとか言われていることすらあって多少困惑している。サービスを作ったきっかけは前述のとおりだし、今でもいたずらのつもりで動かしている。
いたずらでやってるつもりなのでチャリティーとかやりたくはないのだけど、自分が眠りつづけて死ぬのグッズを作ってみたかったので、せっかくだからグッズの販売を始めた。1つ売れるごとに500円の収益が発生するようになっているので、もし発生したらそれは目黒寄生虫館での研究活動と被災地の復興支援のために半分ずつ寄付したいと思っている。寄付目当てで買う人は直接寄付したほうがいいし、こんなクソみたいなグッズが欲しいという奇特な人だけが買うようにしてほしい。復興支援は赤十字ではなくて、自治体などに直接寄付したいのだけど、縁のある被災地の自治体が昔住んでいたし今でも親戚が住んでいる千葉県浦安市ぐらいしかないので悩んでいる。どうせ何人も買わないと収益が支払われないので、そのころに買ってくれた人の意見を優先して聴きつつ決めたいと思っている。

プログラミングを始めたきっかけとかの話

僕がプログラミングをはじめたきっかけ - ごみ箱あたりで、中高生ぐらいのプログラマーがプログラミングを始めたきっかけとかどんな言語が好きかなんていう話を書いていて、中高生じゃないし今年で23くらいになるけどせっかくなので参加してみる。

使ったりしてる/した言語

Ruby
いちばんまともに使える。何か作れといわれたらまずRubyを使うとおもう
HTML/CSS
HTML5とかCSS3とかたのしいですね。GUIのついたプログラム作るのめんどくさいし、Webブラウザならいろんな端末で使えるんだからWebアプリで済むようなものならWebアプリにしちゃえばいいと思ってる。
JavaScript
書いてて楽しいし、上に書いた理由でいろんなことをWebブラウザ上でやりたいので書きまくる。
HSP
たぶん初めて触った言語。というだけでしかない。
PHP
HTMLの中にプログラムが書けてWebサービスが簡単に作れる!!!すごい!!!!って思っていた頃が僕にもありました。今は書いてるうちにウェーってなってくるけど、以前はけっこうお世話になりました。
Python
書けたらいいなと思いつつ、ぜんぜん触ってない
Processing.org
(言語ですらないけど)プログラミングを学ぶ上で非常に楽しかったので思い入れがある。簡単にきれいなグラフィックが作れるのはなかなか感動的だった
LISP
真理
Java
の話はやめろ。SunSPOTいじるときにちょっと触っただけ
C/C++
の話はやめろ。計算機工学みたいな感じのことをする需要で読みはするけど自分で書こうとは思わない。

大学入学までの話

アマチュア無線家の父親が大昔からPCも使っていたので、たぶん生まれた頃から家にPCはあったと思う。本格的にPCに触れたりしたのはWindows95が出た頃で、父親が自分以外の家族にも使えるようにPCを買ってきたあたりだった。このPCを買う少し前、父親がタッチタイピングを覚えさせるために英字タイプライターをくれたのは、今思うと異常な出来事だった。そのおかげかタイピングは当時からかなり速かったはず。
本格的にインターネットを使うようになったのは2000年ごろで、それまでISDNだった回線がケーブルテレビにして1Mbpsの常時接続環境になった。このころに悪名高きホームページビルダーによって最初にWebサイトを作成した(ことはなるべく記憶から抹消したいですね)。
このへんのどこかでHSPを触ってみたりしたのがたぶん最初のプログラミングで、ただ大したものを作ることもできずにわりとすぐに放り出していた。
ホームページビルダーがクソだと気づいてちゃんとエディタで作るようになってからはHTML-Lintで100点を取るのが目標になって、意識してきれいなサイトを作るようになった。配布されているCGIスクリプトを設置したりはしていたのだけど、自分でそれを作ってみるというところまではやらなかった。というかどうやって勉強していいのかよくわからなかった。いちおうやりたかったのは確かで、PerlRubyPHPHello Worldしたりはしていた。たぶんこれくらいの頃にfizzbazzくらいは作れたんじゃないかと思う(けど、当時はそういう問題を出してくれる人もいなかったし、プログラミングの本も読まなかった)。
文字を表示するだけのプログラムはすぐ飽きたし、Webサイトに使うCGIはそこらじゅうに転がっていたし、GUIなプログラムはコードが難しすぎて独学できそうになかったのでそれ以上さわらなかった。
2004年(高校1年)あたりにブログブームが発生して、そのころにCSSでブログのテンプレートをいろいろいじったりして、floatだとかposition:absoluteとかをバリバリ使うようになった。あとPHPでメールフォームみたいなのを作ったりした記憶もある。
ブログブームのときに衝撃的だったのはRSSやAmazonのAPIの存在で、XMLというものが素晴らしい未来を作ってくれるように感じたりしてしまっていたのも高校の時だったような記憶がある。そういう経緯でcronでPlaggerを回したりもしていた。Ruby On Railsに最初に触れたのもこのころだった気がするけど、当時は動かすサーバーもなかったし自習するための資料もあまりなかったので、10分でブログ作るとかすごいなー、自分には無理だなー、で止まっていた。

大学入学以降

中学高校の間、Webデザインはいろいろやったけれどもプログラミングはあんまりマトモに勉強できなかったので、本格的にプログラミングをやり出したのは大学に入ってからだと思う。
このころに出会って衝撃を受けたのがProcessing.orgで、たしかWebデザインの授業の初回で紹介されたような記憶がある。履修の記録にはその授業がないのでたぶん独学でいろいろやったはずなのだけど、USBカメラの画像を処理したりするプログラムをいじったりしていた。このへんがたぶんコードをまともに書けるようになった最初の経験だと思う。
大学に入ってすぐの電子工作の授業ではなぜかBASIC STAMPという、BASICでプログラムが書けるマイクロコントローラみたいなのを使っていた。この授業ではAVRとBASIC STAMPのどちらかを使う事になっていたのだけど、C言語がこわかったのでBASICにした記憶がある。今思えばAVRにしておけばよかった。C言語にはそのあと、1年生向けのプログラミングの授業でもう少しまともに触れることになるのだけど、その授業は入門用すぎてポインタのポの字も出てこない、ループしたり条件分岐したりするだけの内容だったので、Processing.orgなどをいじっていた僕にとってはあまり面白くなく、CやC++にまともに触らない道へ進むのに一役買った。
研究会に入ってからは相変わらずProcessing.orgで画像処理をしたりしていたのだけど、同時にLispの授業を受けたり独学でRubyを使ってTwitter botを作ったりするようになっていた。Rubyのことがいろいろとわかってきて、だんだんと動的言語が楽でいいじゃんという気分になってきたのがこのころ。
電子工作も、BASIC STAMPのあと最初はPICを使っていたのだけど(研究会にPICを使っている人がいたので)、Arduinoが大学の中で流行りだしてからはProcessing.orgっぽいしこれでいいじゃんという気分になっていた。Arduinoだとほとんどなにも考えずにコードが書けてしまうので、そのぶんハンダ付けの仕上がりなどに凝るようになっていった。
大学4年生にもなると、Ruby信者のTwitter Bot作者として周囲に知られるようになって(@SFC_wellnessという大学の体育の授業の予約状況をpostするbotを作ったりしていた)、Webサービスを作るような研究をやりだしたのでもはやRubyとHTMLとCSS以外の言語を使わなくなっていた。このころからJavaScriptにも凝るようになって、そこでLISPでの経験から悟りのようなものが見えた気がして一人で興奮したりして、リア充爆破だとかTweetshootingだとかを作ったりして、GAE+JRuby+SinatraとCrhome拡張で卒研のシステムを作ったりして、大学院に入ったりして、今に至ります。

まとめ

こうやってまとめてみると、結局自分にできることは本当にたいしたことがなくて、たまたまなんとなく自分に使えそうだなぁという程度の基準で選んだ言語でできそうなことをやってきたに過ぎなかったような感じがする。Webや電子工作はちょこちょことやってきたけれども割と中途半端だし、OSネイティブなGUIを使うプログラムとかは全然書いてないことに改めてショックを受けたりもした(この件については研究室の同期からちょくちょくディスられている)。
このシリーズを書いている他の中高生たちは、中高生のころからもっとすごい経験をたくさんしていて、たぶん大学を出るような歳になる頃にはさらにすごい人材になっているだろうと思う。そう思うとすこし悔しい。自分がすんなりコードを書けるようになった理由としてたぶんWindows95のPCが家にきたときからの積み重ねはあっただろうけど、もう少し忍耐強く、本や機材を買って勉強していればよかった。
とはいえ、中高生プログラマーが本当に幼いころから神童のようにコードを書いていたのかといえば、記事を読む限り必ずしもそうではなくて、意外と最近(ここ数年)だったりするのは少し驚きだった。がんばろう。

Eye-fiのブロガーイベントに行ってきた

11日にEye-Fiの創業者であるYuval Koren氏が来日して開かれたブロガー向けのイベントに行ってきました。
冒頭のYuval Koren氏(司会の方からは常にユーバルと呼ばれていた)のプレゼンはEye-fiの新機能の説明や提携の説明などでした。
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ひとつめの提携はカシオのデジカメで、付属するソフトウェアからEye-Fiのクラウドに直接アップロードできるらしい。「無線LANをあまり使えない人でも写真をアップロードしてシェアできるようにする」のが目的とのこと。
そして新機能の説明として、iOS/Android用のダイレクトモードの説明。カメラからスマートフォンに直接写真を送ることができて、そこからアップロードすることができる。これまでアプリは英語版しかなかったが、この日から日本語にも対応したとのこと。
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「インスタント」なものとして、「インスタントコーヒー」「インスタントラーメン」「インスタントフィルム」に次ぐ発明、ということらしい。ちょっと大げさすぎないかそれ……。
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Eye-fiから無線送信をするためにはスマートフォンとのペアリングが必要なのだけど、カメラ本体やEye-fi本体には機器をペアリングするためのボタンをつけることができないので、暗号鍵をクラウド経由で送信するようになっている。この方式を使うことでソフトウェアアップデートだけで使えるようになるし、セキュアでユーザーフレンドリーな通信が可能になるとのこと。ペアリングまわりの話はもう少し詳しく話をきいておきたかった。
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ダイレクトモードの説明の次はもうひとつの提携で、ソフトバンクセレクションとしての販売の紹介。こういう販路で商品を売るのは世界でもはじめてのことで注目しているらしい。
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Yuval Koren氏のプレゼン(結構長かった)のあと、ようやくドリンクタイム。
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この日の料理はイスラエル出身のYuval Koren氏にちなんでピタサンド。Eye-Fiの社内でも月1回金曜日に振舞っているんだとか。なかなかボリュームのある料理で、わりとビールで流しこむような感じだったし、僕はそこまで味に不満はなかったけれど一緒にいた@mapiは2口くらいでやめていた。切って出したりほかのおつまみとかあったりしてもよかった感が高い……。
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Eye-Fiの体験のためにカメラとiPhoneiPadを持ったスタッフの人が歩きまわってて、被写体としてダンサーの方がパフォーマンスをしていたのだけど、あんまりEye-Fiのささったカメラの被写体にはなってなくて、写真好きっぽい人達が自分の持ち込んだ一眼レフでふつうにがんがん写真を撮ってておもしろかった。
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個人的にはEye-Fiよりも歓談中にやっていたとれるカメラバッグのプレゼンのほうが面白くて、ふつうに便利そうだった。ふつうのカメラバッグだと四角くて扱いにくいのだけど、このカメラバッグは身体にフィットする形をしてるし、中のカメラやその他のものがすぐに取り出せるようになっていて便利そう。値段が少し高くてふつうに安めのコンデジが買えてしまう値段だし、使っていると物欲が刺激されてしまうらしいので危険だけど……。
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僕は実はEye-Fiを持っていなくて、ちょっと欲しいなとは前から思っていたのだけど現状のラインナップだとまだ買う気になれないなーというのが正直なところ。WiMAXのモバイルルーターを持ち歩いているので、主にメモ用として持ち歩いているコンデジにEye-Fiをさしておけばその場でアップロードできるし便利だとは思う。しかしいくらお求めやすくなったとはいえ一番高いモデルでないと位置情報が使えないのがものすごく残念だと思う。4GBですら1回で使い切ることはほとんどないし、容量抑えめで全機能使えるモデルがあってもいいんじゃないの?というような気がする。とはいえEye-Fiカードの価格はクラウドの利用料も含まれてるみたいだし、部品調達や生産数との関係もあるので難しいのかもしれない。月額や年額で課金する方法とかも検討できないものかなとも思う。

怪我をしてからの食生活

唇を怪我して前歯をぶつけてしまったのでけっこう食生活に苦労してる話を書く。
転んだ日は家事をする気になれなかったので、惣菜の餃子とサラダを買って帰って、それに加えてインスタントの味噌汁を作った。ところがなかなか食べるのがしんどくて、餃子は前歯が痛くて噛み切れないので皿の上で箸で切って食べなければいけなかったし、味噌汁は唇に熱い汁が触れて本当に痛かったのでそのままだと全く飲むことができなかった。仕方がないので味噌汁には大量のお麩を浮かべて、それを箸で口の奥のほうに置いてくるみたいな食べ方をすることで凌ぐことにした。
翌日以降はちゃんと自分でつくっているけれども、唇が熱い汁物を受け付けないのと、前歯が痛くてものを噛み切ることができないのでどうしてもメニューが限定されてしまう。朝食も食パンを食べることができないので基本的にコーンフレークだし、コーンフレークも気をつけて噛まないと前歯にあたって痛い思いをしてしまう。味噌汁にお麩を入れるのは正解で、お麩以外だとキャベツを大量にいれたのもけっこうよかった。飲み物を飲む時も唇の傷を避けるためになるべくストローで飲むようにしている。木曜日の晩に行った居酒屋はストローがなかったので、これからは出歩くときもストローを持ち歩くようにしようと思う。
食べるほうは少しの工夫でなんとかなるのだけど、洗い物が地味に大変で、右手をひねると痛い関係でいまいちはかどらず、僕はふだん洗い物を料理の直前にしているので洗い物に時間がかかった分調理も遅くなって食べ始めるのも遅くなるというのをずっとやっている。
ここまで手間も時間もかかるのになぜ自宅でつくって食べているのかといえば、外で食べるようにすると思わぬところで食べられないものに出会いそうで危ないから。自分で作ったものなら食べられないとわかった時点ですこし手を加えて食べられるようにできるけれども、外食だとそうもいかない。そういうわけで時間をかけてでも自分で作って食べるようにしている。